深い眠りについていた望美は、ふいに意識を取り戻した。
誰かが自分に何かを言っているのが耳に届いた、そんな気がした。
地に伏した状態の身体を起こしてみる。そして視線を巡らせてみた。
確かに誰かが何かを言ったのを耳にしたはずだと思ったが、その場所で、その声の主の姿は見えなかった。
いや、声の主だけではない。
望美が目覚めたその場所には、望美以外には何も存在しない場所だった。
影さえも地には映ることのない、ただ、延々と広がる黒い空間。
「……!」
望美は誰かいないかと呼んでみようとした。けれど、望美の声は音にはならなかった。まるで水が布に吸い込むかのように、望美の声はその空間に吸収されていった。
一瞬、時空のはざまにいるのかと思った。
けれど、この場所では時空の流れは感じられない。
胸元の白龍の逆鱗も何の反応も見せない。
誰一人、何ひとつ感じられない場所に放り出された望美の心に、心細さと不安が広がり始める。
その時、突然、ポゥっと赤い炎が空中で燃え上がった。
真っ白なその空間に現われた、ただひとつの炎。
手のひらほどの大きさのそれは、全てを燃やし尽す破壊の炎ではなく、心を照らす優しくあたたかな炎に思えた。
望美は立ち上がり、その炎に近づいてみる。しかし炎は望美が近づくのと同時に遠ざかっていった。
歩みを止まれば炎の動きも止まる。一定の距離を保つ炎に、望美は戸惑う。
しかし、その炎は、望美が立ち止まったでいると、わずかに揺らめき、どこか望美の動きを誘っているかのようだった。
望美は一歩踏み出してみる。
すると炎は先ほどよりもはっきりとした動きを見せて、望美を導くかのように先へと進みだした。
望美は導かれるまま、一歩一歩と歩みを進めてみる。
天地も左右もわからない場所。道もなければ方向を示すものもない。けれど望美は確実にまっすぐに歩いていた。
ふいに目の前を行く炎が大きくなる。そしてそれは姿見の鏡に形を変えた。
余計な装飾のないただ四角く縦に長いだけの鏡。
その鏡に映し出されたのは正面に向かう望美の姿ではなかった。
真直ぐにこちらに視線を向けていたヒノエだった。
鏡面に映し出されたのがヒノエだと認めた瞬間、望美は一歩後ずさった。
ヒノエに逢うわけにはいかない。
逢える筈がない。
突然目にしたヒノエの姿に望美は戸惑う。
しかし鏡面のヒノエに変化はなかった。鏡はヒノエの様子を映すだけであって、ヒノエの側からは望美を見たりすることはできないのだろう。
真直ぐに視線を向けているヒノエの前に望美が立っていても、ヒノエの表情は何も変わらなかった。
向かい合うような形で立つ2人。
ヒノエの唇が動き出した。
『愛してる』
その言葉は、まるで鋭い矢に射られたかのように望美の心に突き刺さる。
しかしそれに痛みはなく、逆に心には優しく包み込むようなあたたかさが広がった。
『望美』
他の誰でもなく、呼んでいるのは自分の名前。
名前を呼ばれるだけで胸が熱くなる。
『愛してる』
繰り返される、真実だけを宿した言葉。
それは疑いや嫉妬の負の感情を一気に溶かしていく。
そして望美の心に残されるのは、ヒノエを愛しているという気持ちだけ。
誰よりも愛しいかげないのない人への想いだけだった。
望美は吸い寄せられるように身体を鏡へ近づける。
指先が鏡に触れる。
固く冷たい感触だった。
鏡の向こうには今すぐ触れたい愛しい人がいるのに、鏡面のその薄く見える隔たりは、何よりも厚い。
側に行きたい。でも行けない。
今の状況はそのまま望美の心中を表わす。
想うのはただひとり。
それは変えられる事のない真実の想い。
けれど、自分は本当にヒノエの側にいて良いのだろうか。
側にいても自分ではヒノエをしあわせにすることは出来ないのではないだろうか。
自分の存在は負担にしかならないのではないだろうか。
それならいっそヒノエの前から消えてしまった方が良いのかもしれない。
自分は側にいない方が……。
想いは強い、けれど、ヒノエの隣に立つ自信がない。
堂々巡りをする望美の想い。
手を伸ばせば触れるほどの距離に見えるのに、鏡の向こうは遠かった。
第十二話 第十四話
<こぼれ話>
望美サイドです。
うわぁ、何だかもう望美ちゃんの想いぐちゃぐちゃって感じ(^^;)
こんな後ろ向きな性格じゃなかった筈なのですが。
望美ちゃんが本当に戻りたいと思えるようになるには……ヒノエ君の説得……愛次第。
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