屋敷に戻り、夫婦二人の私室へと戻ったヒノエと望美だった。
しかし、二人とも別々に離れた場所に座ったまま、しばらく口を開こうとはしなかった。
沈黙が続く。
その間、ヒノエはずっと望美を見つめていた。その視線に望美は気づいていたはずなのだが、一度として望美はヒノエを見ようとはしなかった。
いつの間にか陽は傾き、淡い蜜柑色の夕陽が室内に広がっていた。
「望美」
先に沈黙を破ったのはヒノエだった。
「どうして本宮に来たんだ? 今日は屋敷にいるはずだったろう? 急ぎ伝えたいことがあったと聞いたけれど、何だったんだ?」
視線を合わせようとしなかった望美が静かに顔をあげた。
「それに答える前に私からも聞きたいことがあるの」
「なんだ?」
「……そんなに跡継ぎが欲しい?」
「どういう意味だ?」
「私がここにいるのは、熊野の跡継ぎを産むため? 子供が産めるなら結婚するのは私じゃなくても良かったの?」
「バカなことを言うな。お前以外の誰がオレの妻になれるというんだ?」
「でも、子供が産めなければ私の存在は認められないのでしょう?」
「子供がいようがいまいが、オレがお前の存在を認めてる。愛しているのはお前だけだ。お前以外はオレの妻にはなれない」
「私もヒノエ君を愛しているわ。ヒノエ君の妻になれて良かったと思う。でも、本当に必要なのはヒノエ君の妻ではなくて『熊野別当の妻』なんじゃないの?」
望美の手がかすかに震える。
今まで口に出す事はなかったが、ずっと心にひっかかっていた疑問。
「私はヒノエ君の妻にはなれても『熊野別当の妻』にはなれないんじゃないかと思う」
「それの何が違うっていうんだ? オレはオレであり、そしてオレは熊野別当だ。オレが熊野別当である以上、オレの妻ということも熊野別当の妻ということも変わりはないだろう?」
「いいえ、全然意味が違うわ。跡継ぎ一人産めないようじゃ別当の妻とはいえない」
なかなか子供ができなかった事を影で言われていたのを望美は知っていた。ただずっと気づかないフリをしてきた。まだ子供ができる時期ではないのだろうと思って来た。それに、年齢的にもまだ若いし、子供というのは時が来れば身ごもるものだろうと深く考えずにいたのだった。
幼い頃に夢見ていた未来、その時はこの年齢で結婚することも子供を産むということも思い描いてはいなかった。
いつかは子供を産み、母になるのだと漠然と思ってはいたけれど。
生まれ育った世界であれば、子供がいないからといっても特別責められたりはしないだろう。
しかし、この世界ではそうも言っていられないのだ。
この世界・この時代では戦や病いのせいで命を落とす事が少なくない。いつ何が起こり得るのかわからないため、一族を率いる者ならばその血を絶やさないために手を尽さなければならない。
血を繋ぐということが何よりも重んじられるということを、望美が別世界から来たからといって無視してはいけない事柄なのだ。
「望美が跡継ぎのことについて気になるのはよくわかる。でも、その件については今日の話し合いで決着をつけた。この先オレ達の間に子が産まれず、そしてオレに何かあった場合は弁慶が熊野を継ぐことになった。だからオレ達の間に子が産まれなかったとしても、もう問題はない」
話し合いの場で決まった、いや、ヒノエが単独で決めた事柄を望美に告げる。
「そう。弁慶さんにも迷惑かけてしまったのね」
「望美がそんなふうに考えることはない。もともと弁慶は熊野の直系だ。普通に考えてもオレに次ぐ継承権を持つのはアイツだ」
「でも、それは弁慶さんの本意ではないでしょう? 私達の問題に巻き込んでしまったこと、あとで謝らないとね」
「このことはアイツも承諾したんだ。望美が謝ることはない」
うやむやにしていた件をはっきりとさせただけなのだから、望美が謝罪するなどあり得ない事だと、ヒノエは強気に言い切った。
「それでもやっぱり弁慶さんを巻き込んだ事には変わらないもの。『謝罪』がダメなら『お礼』くらいは言わないと」
ヒノエの言い分はわからなくはないけれど、望美はそのままにしておく気にはなれなかった。
「そこまで言うなら好きにすれば良いさ。アイツも望美から『お礼』が聞ければ喜んで引き受けるだろう。さ、これでこの件については片がついた。お前ももう話題には出すなよ?」
「ええ、『この件』についてはわかったわ」
「望美?」
それまで淡々した表情で話をしていた望美が、苦しげに目を伏せた。
「桔梗さんのことで何か言う事は?」
「桔梗は関係ないだろう?」
「関係ないとは言わせないわ。この件だけでなく、彼女はヒノエ君に大きく関わっている人でしょう?」
「あいつはただの幼馴染みだ」
「じゃぁ、どうして? ヒノエ君が水軍を連れてくるために熊野へ戻った時、どうして桔梗さんと一晩一緒に過ごしたの?」
「お前、そのこと……」
知っているはずのない事を指摘され、ヒノエは思わずうろたえてしまった。隠し通してしまえば良かったものを、これではもうごまかすことはできなかった。
「言ってたでしょう? 桔梗さんは私が知っているのだと。ヒノエ君と桔梗さんはただの幼馴染みなんかじゃない。恋人同士だった」
「それはお前と……」
「わかってる。私と出逢う前のことだって言うのでしょう? でも、一晩一緒だったって時の事は違う。あの頃のあなたは私を好きだと言ってくれていた。私もあなたの事が好きで、帰ってこないあなたを心配して、不安で心が張り裂けそうなくらいだった。それなのに、あなたは私の知らないところで別の女性と過ごしてた。私を抱きしめたその腕は、先に別の女性を抱いていた!」
「違う! 俺はそんなことはしていない!」
「じゃあ、桔梗さんが嘘を言ったの?! ヒノエ君は桔梗さんと会わなかったの?!」
「それは……」
望美の問いにヒノエは肯定できない。
「頭ではわかっているの。2人の間に何があったとしても、結局はヒノエ君は桔梗さんではなく私を選んでくれたんだって。それに、過ぎた事を、もう5年以上も前のことを気にする方がおかしいって。でも、どうしてこんなにも裏切られたって思いになるの?」
「オレは裏切ってなんかいない!」
「わからない。どうしてこんなに不安なの? あなたのそばにいるのがどうしてこんなに怖いの?」
身体が震え出す。
望美はその震えを自分で押さえるように自分で自分を抱きしめる。
「望美、落ち着いて。全部話すから。だからちゃんとオレの話を……」
「あなたを誰にも取られたくない! 私以外の誰かがあなたに触れるのはイヤ! あなたが私以外の誰かに触れるのはもっとイヤ!」
「オレに触れられるのはお前だけだ。オレが触れるのもお前だけだ」
「そうであって欲しい……。でも、そうではいられないのでしょう? 私が跡継ぎとなる子供を産まなければ、別の女性を迎えなけばならないのでしょう?」
「その事についてはもう話は終わったじゃないか!」
「でも、本当は弁慶さんじゃなく、あなたの血を引く子供が継いだ方が良いのでしょう?! それに、私に子供が出来たとしても、本当は私の子供じゃなくてこの世界の女性が産んだ子供の方が良いのではないの?!」
「お前に子供ができたなら何も問題ないだろう! どうしてそんなことを考える?! この世界の人間だろうが別の世界だろうが、オレの子を産むのはお前しかいないんだ!」
「それだけじゃない。私は本当にヒノエ君のそばにいていいのかしら?」
「望美……」
「桔梗さんから昔の話を聞かされ、私がどんな思いだったと思う? 嫉妬の思いで心が黒くなる感じだった。何を言われても平然として平気でいようと平静を装って、でも心の中は真っ黒だった。緋名さんが言ったことは本当よ。彼女が言った通り、私はあなたに愛されているという自信があった。他の誰もあなたの気をひくことなんてできないって思っていたのよ。傲慢よね。ヒノエ君の気持ちはヒノエ君にしか決められないのに。それなのに、私はヒノエ君のそばに来ようとする女性を無意識に見下してたのよ」
「……」
「こんなふうに嫉妬するなんてバカでしょう? こんな女があなたの妻でいいと思う?」
「オレにはお前しかいない」
ヒノエのその言葉は何よりも嬉しい言葉だ。けれど、今はそれさえも重荷にしかならない。
想いを向けられれば向けられるだけ、心が強く締めつけられていく。
「ヒノエ君を好きなだけなのに、どうしてこんな苦しい思いをしなければならないの? 嫉妬でどうにかなってしまいそう。嫉妬するような自分は醜くて大嫌い。苦しくて苦しくててどうにかなってしまいそう!」
あふれる気持ちとともに涙が流れ出す。
強く想えば想うほど、その気持ちの裏側にある陰の黒い部分も大きくなっていく。
「こんな思いをするなら……、こんな思いをするくらいだったら!」
心のどこかで『止めろ』と言う。
言ってはいけない言葉だと、頭の中で警鐘が鳴り響く。
けれど、勢いのついた感情はもう止まらない。止める術がわからない。
「こんな思いをするんだったら……」
その刹那、ヒノエはただならぬ恐怖を感じた。望美が何を言おうとしているのか直感的に伝わって来た。
「言うな! 言わないでくれ! 望美!」
「ここに残らなければ良かった!」
ヒノエの願いは届かず、望美がそう叫んだ瞬間、望美の胸元が眩く光った。
目を開けていられないほどの閃光に、ヒノエは咄嗟に瞳を閉じる。そしてその瞬間にヒノエの身体が大きく弾き飛ばされる。
壁に打ち付けられ、背中に痛みが走った。
閃光は一瞬だった。
ヒノエが次に目を開けた時にはもうそこには静けさしかなかった。
すぐそこにいたはずの、望美の姿はどこにもなかった。
「望美? 望美?!」
いくら名を呼んでも返事はない。
ヒノエは襖という襖を開け、部屋という部屋に飛び込み、望美を探す。
しかしどこへ行っても気配は感じられない。
髪の毛一本すら落ちていない。
まるで、初めから望美がいなかったかのようだった。
「返事しろ! 望美!」
焦りと不安が次第に大きくなっていく。
『天の朱雀よ』
突然耳に声が届いた。
気配は一切感じられず、ただ声だけが聞こえる。
「誰だ?! 出てこい!」
『もう神子は任せられない』
静かで尊厳の響きある声。どこか威圧感を感じる。
有無を言わせない力強さがあった。
「その声、まさか……」
何故か聞き覚えのある声に、ヒノエの表情は堅いものになる。
『今の天の朱雀に神子は任せられない!』
雷に打たれるがごとく、一瞬ビリッとした激しい衝撃がヒノエの身体に走る。
そして、それっきり、声はもう聞こえなかった。
「……待て、よ。おい、お前は!」
ヒノエがいくら大声で叫んでも、返ってくる声はなかった。
第九話 第十一話
<こぼれ話>
想えば想うほど、その大きさに比例して負の感情も大きくなる。
一度芽生えてしまった感情を収めるにはどうすれば良いのか……。
急展開!
果たして望美の行方は!?
そして声の正体は?!
どうする、ヒノエ?!
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