制作者随筆2000年(2001年2002年) 

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 奥様「さとうその子」さんのページを追加した。アーティストのホームページ作りは面 白い。作品をじいっとみつめていると、いつの間にか作家の世界に溶け込んで、自然とレイアウトや色を決まってくる。

 今回は 園チャンのお陰で、四角四面に生きている私がなんだかフワフワ、ノビョ〜ンとしてきた。このまましばらく、ノビョ〜ン...フワフワフワッとなれないものかな〜.....

11/8  トップページを新しくする。ガリバーの写 真を使いたかったが、どうもうまく行かずこの写真になった。
10/25

 三田(サンダ)、この地名をサンタと同じイントネーションで言うとは、関東の私にはなんて新鮮な。

 23日から一泊で、ボンズ工房の一行に加わった。移動日は雨 。四人が交代で運転するのでほとんど休憩なしで突っ走る。雨の高速道路では、途中いくつか 事故現場を目撃することになる。十分な車間距離を維持するのは難しく、視界は悪く、カーブでは時折タイヤが浮く。一台がつまずけば玉 突きはまぬがれないどころか、反対斜線では事故現場から数百メートル離れたところのトラックが横滑りをしているのすら見かけた。
 9時間後、ウッディタウン、センチュリーモールに到着すると、すでに現地の人達の協力で無事に荷降ろしが済んでいた。現場の下見を済ませ、作品にシートをかぶせて宿に落ち着く。

 24日。朝8時に現場到着。晴天に視界が開けると、平坦な土地に開発された街が見渡せる。誰もいなければ、ここが日本とわかるだろうか。まるで平坦な板の上に模型を置いていくかのように、高層住宅、個建て住宅、ショッピングモールと作られている。人の住んでいない丘陵地を、アスファルト、砂利、レンガが地面 を覆っていく。

 この人工的な街の中心にあって住人の生活物資、娯楽施設を供給する場がここになる。そしてその入り口で人々を出迎えるのが赤川政由氏の作品となる。
 作品が生まれる時点から、工房を離れて旅立って行く過程までを観察することによって、ボン氏が自分の芸術活動と「街造り」の繋がりにこだわるの気持ちが読めてきた。この地に住み着いた人達は、何百回と彼の作品を見ることになるわけで、そうした中で佇む人形が周囲とどんな気をかもし出していくのか。

 「君たち頼んだよ。しっかりやれよな。」という彼のまなざしが 分かるようになってきた。

10/9  コンピューターの前に釘付けになって二ヶ月以上が過ぎた。この間ボンチャンとは何時間共に過したことだろう。私がこのホームページに手を染めたきっかけは、正直「彼の作品に惚れ込んで」などという純粋な動機からではない。私自身、このとてつもない人物の業績をインターネットを通 じてどこまで表現し、人々に伝えうることができるか、それを試すための格好の素材とにらんだだけのこと。いかにも不純な下心から発している。

  我が家のダイニングの椅子は私にはちょっと大きすぎるのに、ボンチャンがその椅子に座るとその椅子が見えなくなってしまう。悲鳴をあげるその椅子にどっかりと重心を移して、とりとめのない語りがはじまると、居間中のすべて--妖精も、バクテリアも、ゴキブリも-- が聞き入っているように感じる。

夜がふけると、「ほ〜ら、もう抜け出られないんだからライフワークと思ってゆくりやんなさい」と言いながら、ノッシノッシとゾウさんのように体をゆすって帰っていく。

現時点では、彼のメールも私の管轄になっていて、逐次プリントしたものをワックスで送っている。返事も、適宜指示に従って書いているが、私の個人名を入れて発することが多い。

今は、ほぼ一通り体裁を整えて微調整の段階に入ったが、ホットしたのもつかの間、工房には次の作品がひしめいていて、現地での設置が迫っている。

今日このページを加えたのは、朝風呂の湯舟に漬かりながら彼のこんな言葉を思い出したから。

「僕の作品のある学校はね、生徒がみ〜んな良くなってくるんだよ。自主的になって活動が活発になるんだってさ。たとえばね...」

彼の作品の味は、出来上がって設置されたときよりも、時を経てから味が深まってくる。彼の作品が環境の中に溶け込み、そこにあることで人々良い影響を与えていく。日々作品を見る人達に愛され、なくてはならない存在となっていく。

一段落したら、BONNZU作品めぐりをして、自分の目で見たボンズレポートを書いていきたい。

制作者随筆2001年