dis-com-position I Op. 2.0

楽譜(第1ページ(55k),第7ページ(69k))を見る 音を聴いてみる(9分02秒)

作曲期間  1997-98年
編成    フルート、ヴィオラ、ヴィブラフォン、ピアノ
演奏時間  9分
初演    1998年2月 横浜、フィリアホール
      木ノ脇道元(fl), 若松美緒(va), 宮本典子(vibr), 稲垣聡(pf)

前作「耳で聴く建築」は有り体に云って、技術的稚拙さはともかく、方法的にも周囲に殆ど相手にされなかったという感触を持った。全然まだ自分の仕事が的を射ているか否かについての確証など持てない状態であったので、自然に私はこの作品の蔵している萌芽の価値を否定する方向に傾いた。また一方で、「3本の線」では音群がシステムで統御されていたためシステム自体の持つある意味における自律性が音に顕れていたのに対し、「建築」では特にシステムを利用せず、自分の「耳」から直接紡ぎだした音をメインに構成したところ、結局のところ顕れた音響が、どことなく脆弱で陳腐なものに堕していったことにも少なからず落胆を感じたものだった。

こうして私は再びシステムによる作曲へと赴いた。しかしそれが再び「3本の線」のようなモノトナスなトーンを導くことのないように、システムの中にトーンを多様化させ得るような仕掛けを組み込むことが今度の眼目となった。一方で、当時の私の中に「作曲とはこうあらねばならない」式の定式化に漠然とした違和感があった。自分の表現したいものが何か内側に存在して、それに具体的な形を与え「構成」することによって「表現」するといった図式。これは、たとえ言葉を媒介しない場合でも、音楽的というよりは「文学」的な行為だと思われたのだ。そして、何か別の選択肢は可能ではないのだろうかと常に思っていた。ただし、「文学」的な音楽活動は駄目だなどと僭越なことを云いたいわけでは毛頭なく、ただ単に、それだけでなくともよいのではないか、と云いたいだけのことである。

そこで、とにかく今度の作品の音から(狭義の)「表現」を極力除こうと考え、素材となる各パートの動きのほとんど全てを、ある一定のアルゴリズムから自動的に導き出し、それらがある程度音楽的意味を有するように後から時間的配置を決定する、という作り方にした。これによって、素材をほぼ完全に無作為なまま呈示することによる無機質なモノトーン(「3本の線」)と陳腐さに陥りがちな「文学」性(「建築」)の両方から遠ざかることができるのでは、と目論んだのである。(この時、後者の陳腐さというものが技術上の貧困さから来るものに過ぎないのではないかという指摘があり得ることに対しては、半ば無意識に目をつむっていたかもしれない。)

主な素材は、A:一定リズムによる無窮動的なパッセージ、B:パラメータ(音程、音価、強度、アタック、奏法、そしてそれぞれの変化の頻度)が細かく変化する音型、C:パラメータ(音価、強度、アタック、音域、協和度)の変化を伴う4音のコード、の3種類である。このうちCはヴィブラフォンとピアノのみによって担当される。

ある音から出発し、そこから高くなるか低くなるか、何音移動するか、何分の何拍続くか、同じ強度が何音続くか、そしてその強度は何か、同じアタックが何音続くか、そのアタックはどのようなものか(staccatissimoからlegatoまで数段階)、などを一音につきそれぞれ決めていくのだが、決定にあたって、日本語の五十音表を用い、ある日本語のテクストの一部を1字ずつ拾っては、五十音表内での位置から1パラメータを決定するという作業を延々と繰り返すのである。ちなみにこの時に用いたテクストは、蓮實重彦のエッセイ「『結論』と呼ばれる『愚かさ』を時代の残酷な魅力として楽しむための感性が求められている」(『凡庸さについてお話させていただきます』(中央公論社)所収)の冒頭からの約8ページ分である。なお、Aについては音程だけがこの方法によって決定されており、音型全体が非常に緩やかな加速あるいは減速を伴うようになっている。Cにおける協和度というパラメータは便宜的に決められたもので、単音程に密集させたときに、長三和音を含むものから半音間隔で4音積み重なったものまで、 7〜8段階に分かれている。

更に、これらの音素材を適宜組み合わせて配置していく(dispose)一方で、「直接耳で聴いて書いた」音からなる部分を時々異分子的に介入させた。全楽器がさまざまな奏法である一音(=f3)を鳴らし続ける部分や、噪音のみになる部分や、レジスタの固定された十二音からなるモード(これは確かE. カーターが『こだわりの鏡』第1曲で用いていたものだと思う)のみで全楽器が動く部分、梵鐘の音を唸りなども含めて自分の耳で写生した部分、などである。

主な部分をdispositionによって行われる作曲(composition)は、狭義の「作曲」ならざるもの(dis-'composition')の可能性を示唆しはしないだろうか、といった小さな野心がタイトルには込められている。この頃の曲としては自分でも割と気に入った作品ではあるが、問題として挙げるならば、終わり方がいかにも「終わり」風になってしまったことだろうか。当初はもっと何気ない終わり方を狙っていたはずなのだが。(01/2001)

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