miscellaneous essays archives
過去の日々の雑記帳 11-20


日本人
27/06/01

Azubi, 我が同胞たち
09/10/01

休暇終了
15/09/01

こぼれ話3題
18/10/01

さむい!
16/09/01

ケルン讃
19/10/01

隣の花
20/09/01

パリとわたくし
24/10/01

ワルシャワよいとこ一度はおいで
07/10/01

東欧ツアーのあらまし
21/11/01

aragak music institute

日本人 27/06/01

32歳か……特に感慨なし。

こちらで暮らすと、こちらで働いている日本人に接する必要のある機会もいくらかあります。その度に、ぼくは何だか少しやり切れない気持ちになります。
早い話が、彼らはぼくから見るとかなりつっけんどんです。言葉遣いはぞんざいではないのですが、どうもぼくが聞き慣れていない種類の日本語を話しているように思われてならないのです。

デュッセルドルフの領事館での話を以前滞在日記で書きましたが、要するに今までぼくが接したヨーロッパの日本人の感じって、ほとんど全部あの感じなのですね。無礼とは云わないけど、慇懃なだけ。とにかくそれだけ。それって、ぼくが見ると、かえってつっけんどんなんです。

具体的な会話を挙げても、文字からニュアンスを伝えるのはとても難しいので、敢えてしませんが、心がちょっと弱くなっているときなどは、けっこう応えます。ドイツ人につっけんどんな対応をされた時の比ではありません。

基本的にヨーロッパの人は、自分の云い方や態度で相手がどう感じるかを気遣うことはあまりないと思います。全くなくはないでしょうが、それは多分日本人が考えるものとは全く違う種類の気遣いです。それよりは、自分の主張を通すことの方が数段優先されます。それが彼らにとって当たり前のことです。
それは知識としては既にぼくも持っていることですし、当初は少し当惑したものの、そういうものなんだと割り切ってしまえばそれほど気にはなりません。それに実際においては、当然人それぞれ対応は違うわけで、とても感じのいいドイツ人も沢山います。むしろそういう時は、すごく嬉しくなります。

長くこちらで暮らすと、日本人もそうなってしまうのでしょう。外国人の間で気を張って暮らしていると、自分の非を素直に認めたり、相手が何を探しているのか理解してやろうとしたりといった時に日本で美徳とされている種類の優しさは、余計で、たぶん厄介なものになってくるのでしょう。ぼくにはまだよく理解できませんが。

そうなった日本人と接すると、彼らが日本語を使っているだけに、ぼくにはとても奇妙なものに見えてきてしまうのです。そして大抵、何だか非常に寂しい気持ちになります。

多分彼らを日本人だと思うからいけないのでしょう。それが解ればぼくもヨーロッパ生活が板についてきたことになるのかもしれませんが、いかんせんまだ初心者です。日本出身のヨーロッパ人とは、ぼくはあまり話したくないと思っているかもしれません。

何だか今日は愚痴っぽい話になっちゃいました。今度はもっと楽しい話をしましょう。
今日は語学学校での月末のテストがあります。早く寝なきゃ。


休暇終了 15/09/01

また何の前触れもなく、えらく更新をサボってしまいました。こういうことでは信頼性を失ってしまいますねぇ。
8月は日本から訪ねて来られる方がたくさんいらっしゃいまして、何だかんだと遠出が重なりました。そうしているうちに、サイトから遠ざかっちゃいました。せっかく遊びに来てくれた方、すみませんでした。

一旦休んでしまうと、再開するきっかけがつかめなくなっていけませんね。小さいことでもいいからコンスタントに続けようと思います。あんまりブランクが長いので心配のメールを下さる方もいらっしゃいました。ご心配かけましてすみません。ぼくは元気でやっております(^^)

休んでいる間にあったこと、ぼちぼちと書いていきたいと思います。

ニューヨークであった惨事についても聞こえてきて、おののいております。
想像を絶する出来事に、云うべき言葉を失っております。無念にも事件の犠牲になってしまった人達に合掌するとともに、今ともに生きている人達の無事を願わずにはいられません。


さむい! 16/09/01

もうケルンは完璧に秋です。というか、もう初冬と呼びたいくらいです。
9月に入るやいなや、日は照らなくなるわ、昼はどんどん短くなるわ。聞いてはいたけど、ほんとにヨーロッパの夏はプツンと糸が切れるように終わっちゃいます。多分今月に入ってから20度に気温が届いたことはないんじゃないかなぁ。

ケルンはだいたい北緯51度に位置します。東京が35〜36度くらいかな? かなり違います。強い暖流のおかげで緯度の差ほどには気温は違わないとはいうものの、やはり甘くないですねぇ。緯度の差が生み出す最も大きな違いは、昼夜の長さですね。

地球上のどの地点でも、天気とか山とか考えなければ、年間を通じた日照時間というのはほぼ同じはずですよね。高緯度に行けば行くほど夏は昼が長くて、冬は夜が長くなるというわけで。
ちゃんとした数値のデータは持っていないのですが(緯度から計算すれば判るはずだけど数学はもう遥か昔にリタイアしたので放棄)、東京では大体昼の長さが年間を通して12±3時間くらいだったと思います。ここケルンでは、夏至前後は夜の9時半くらいまで太陽が見えました。昼の長さは12±5時間くらいの感覚です。すごい。。。(もっとも、ここは東経7度で、夏時間の間は東経30度を標準時子午線として計算することになるので、太陽の南中は午後1時半くらいなのですが)

夏と冬でそんなに昼夜の差があるということは、秋はもう怒濤のように日々刻々と昼が短くなっていくことを意味します。分厚い雲がいきなり空を覆いだすと、もう1年のうちの「夜」に入ったんだなぁと実感します。こちらの人達が夏あんなに太陽を愛おしんでいたのが今になって理解できます。この前行った寿司屋の板さんが云ってました。
「夏はドイツ人は生魚食べないんですよ。夏が終わらないとなかなかお客は入りません。でも夏の終わり頃の彼らには悲壮感がありますねぇ。晴れる度に『今日が最後の夏の日かもしれない』と思うらしいんですよ。寿司屋に来るっていうのは彼らには夏の終わりを認めることになっちゃうんでしょうねぇ」

彼の言葉が今ではとてもよく解ります。今はあの店には、お客も戻ってきたことでしょう…

そんなこんなでここ数日、憂鬱な気分が続いていました。そこにあの事件もあって、なんか往く手が塞がってしまったような感じでした。引き籠ってる場合ではないんで、いま気分を打開する方法を模索してます。


隣の花 20/09/01

サイトを開いて一番嬉しいのは、やはりこれを読んで感想を送っていただいたときです。特に期待していなかっただけに、自分の思ったことが少しでも伝わったと知るのは格別の喜びです。

前に「日本人」という項を書いたとき、後味が悪かったんです。「あぁ何かすごく弱音吐いてるよなぁ」って。そうしたらその後、「全く同じ感情を持った経験があります」という内容のメールを複数の方からいただきました。いずれもぼくより先に海外に勉強に来られた方です。嬉しかったのと同時に、その方達のお話を伺うに、自分なんてまだ全然甘い部類なんだと教えられた気がしました。
また、インターネットがあるだけで、ぼくの状況は何十倍か救われていると思います。ちょっと前まではこんなものなかったわけで、その状況を思うと空恐ろしくなります。電話代だってこの数年で大幅に安くなったし、日本との連絡が本当に楽になってしまいましたね。

留学生の作っているサイトはたくさんあります。そういうものを幾つか見ていくと、時折少し暗澹とした気分になったりします。そこではしばしば、海外での友人との洗練されたやり取りとか、現地の人との心温まる触れ合いとかといった話が紹介されています。それにひきかえ…と、どうしてもなってくるわけです。

本当にみんな、そんなうまく行ってるの? 無能者みたいな気がしているのは自分だけなの? などと考え始めるともういけません。外は寒くて、雨続きです。

ちょっと考えてみれば判ることですが、苦労はみんなしているはずなのです。優雅な留学生活なんて、少数の幸福な例外を除けば幻想に過ぎないのです。隣の花は紅く見える、というごくありふれた錯覚に多分ぼくは捕らわれているのです。必要な努力もろくに払わずに。恥じるべきは多分そのことの方です。

友人が持っていた、遠藤周作の『留学』という本を先日読みました。留学先の社会や風土に入り込めない色々な留学生が挫折感を味わう話のオムニバスです。その中の、仏文学者を扱った話では、主人公は後からパリにやってきた後輩に、社会的にも精神的にも圧迫され、最後には結核になって肉体的にも駆逐されてしまいます。この主人公も見事なまでに「自分ダケガ病」にかかっていると云えましょう。何となく読んで身につまされて、気が沈んじゃいました。今のぼくが読むべき本じゃなかった…

とにかく云えるのは、そんな風に人と自分を比べても何も生まれないってことです。人は人、自分は自分、です。自分に本当に必要なのは何かをちゃんと考えて、それを得ようと努めることだけが、意味のあることなんじゃないかと今では思います。
当たり前のことですけど。言葉の上だけなら簡単なんですけどね。

今晩の夜行で出発して、「ワルシャワの秋」音楽祭を聴いてこようと思います。ポーランドに入るのは初めてです。楽しみです。


ワルシャワよいとこ一度はおいで 07/10/01

ワルシャワから帰ってまいりました。帰路では途中ベルリンで、ちょうど旅行で来ていた旧友と落ち合って2日間ほど見物してきました。
21日から30日までの十日間で11のコンサートに行ってきました。新記録かも。そのうちの7つが「ワルシャワの秋」音楽祭でのコンサートです。この話は音楽雑記帳の方で書きましょう。今度は多分ほんとに書きます。って既にもうだいぶ経ってますが(汗)

ワルシャワは思っていたほど陰鬱な街ではありませんでした。治安も心配してたほど悪くないし。って、どんな想像してたんだという話もあるけど。
首都としてはそれほど広くない領域の中に美しい公園がたくさんあります。夏のワジェンキ公園などは素晴らしいだろうなぁ。あと街に銅像がすごくたくさんありますね。歴代の王やショパン、コペルニクス、ミツキェヴィチといった文化人のものがそこかしこにあって、何というか気分が出ます。

でもこれは戦災でほとんど失われたものを、戦後にそれは大変な努力で再建したものなのだと聞きます。その「保存」への熱意には、文字通り脱帽させられます。
また、街のそこここに戦災の甚大さを記憶に留めるための碑が建っています。ポーランドは第2次大戦においては一方的に被害者の国なので、その説得力は並みではありません。これと比べるとベルリンのカイザー・ヴィルヘルム教会などは、インパクトこそ圧倒的なものの、まだ加害者の国としての遠慮を感じます。もっとも戦争で人が死ぬことに被害者も加害者もないような気もしますが。

ともあれ今回の滞在では時間もあったので、けっこう思いっきり観光してきました。ショパンの生家やショパン博物館などにも行ってきました。国立美術館には珍しいイコンがどっさりあって、見入ってきました。

ドイツと比べて一番違うなと思ったのは、アジア・中東・アフリカの人がとても少ないことです。ほとんどポーランド人なのかな? 外国人労働者とかはいないのかな? と思ったところ、ここに来ている外国人労働者はほとんどがウクライナやベラルーシなどからの人なのだそうです。で、ポーランド人はドイツに働きに行くと。んーむ。そういうことか。

なもんで、日本人観光客はまだちょっと珍しい感じです。子供なんかは本当に口開けて見上げていきます(苦笑)

いろいろ考えると、外国人である自分は、ここではドイツ語を使うべきではないと思えてきます。そんなわけで英語で通すことになります。ぼくは最近、先にドイツ語で考える癖がついてしまって、来た当初より更に英語が下手になってます(別にこれが、ドイツ語が上達していることを意味するわけではないのがミソ)。ちょっと困った。
それはいいんですけど、更に困ったのは、店の人に英語で頼むと、みんな解ってるくせに絶対ポーランド語で返事してくるんだよね。こっちが解るのは「ジェニドブリ(こんにちは)」と「ジェンクイェン(ありがとう)」だけなんですけど。まぁ観光客ズレしてないってことで、よしとするか。


Azubi, 我が同胞たち 09/10/01

最近何か時々変な感覚を覚えることがあって、それは一体何かといえば、人と会って話をするときに身体がまさに「凍って」しまって何も口が動かなくなってしまう瞬間が、たとえ話しているのが日本語であろうと、そうしょっちゅうではないにせよ、間々あるということなのですが、これはまぁそんなにひどいものでなければ、今に始まったことでは決してなく、ぼくは元から少しその毛があるということを自覚していた訳なのですけれど、話しながら頭の方は口に命令を送っているのに口が云うことを聞かないという状態は、一旦意識すると途方もなく苛立たしくなるもので、とりわけ初対面の人と話している場合などは、というのはこちらで暮らしていると会ったことのある人などそんなにいないので自ずから初対面の人と話す機会が増えるからなのですが、そういう場合相手を訝しませたりもするだろうと思ったりして、そう思い始めると相手の一挙一動も自分の心に向かって刺さってくるようになり、次第に心が切れて血が滲んでくるような感覚に襲われたりすると、先日からの鬱傾向が治っていないのかななどとも思われてくるのですが、天気も先週今週と、けっこう晴れ間の覗く日も多く、自分の気分自体はそんなに沈んでいないことを知っているので、それとはちょっと違うだろうと思っていまして、とはいえやはり通常のそれとは少々云いがたい自分の状態を命名するとすれば、軽い失語症か対人恐怖症、要するに何らかの神経症に近いところに位置づけられるようにも思われてくる次第で、このところ身体が風邪にやられていたので、要は心も少し風邪を引いているんだなぁなどと思いながら、今日コンサートの帰り道、市電の駅から家まで空を見上げながら歩いていたら、この頃では珍しく星がとてもたくさん見えて、じっと見ていると流れ星まで1つ2つ走り、一瞬ぞっとするほどの寂しさが襲ってきました。

……これではいけない。それはよく判ってます。で、この状態を癒すことのできるのは自分しかいません。それも判ってます。…作曲でもしますかね。日本にいた時は、作曲となるともたついて後回し後回しにしてましたが、部屋にピアノもない今、作曲ぐらいでしか、ぼくはぼくでいられないのかもしれません。そんな風に考える時が来るなんて思っていませんでしたが、とすると今は幸せと云うべきなのでしょうね。

 

語学学校でともに習っていた日本人の友達はもう大方出払って、ケルン以外の町で働いています。彼らの多くは、ここの語学学校の系列の社団法人が行っている職業訓練プログラムのためにドイツに来ています。
職業訓練プログラムとは、数ヶ月間の語学研修と2年間の職業実習 Ausbildungを経て試験を受けることにより、Geselle(マイスター制度における「職人」の地位)の資格を取ってドイツで働き口を得る道筋のことを指します。みんなは今、その語学研修を終え、方々に散ってそれぞれの職業のお店で実習店員として Ausbildungをしている最中なのです。ぼくの知っている人達の職業は、お花屋さん、肉屋さん、お菓子屋さん、パン屋さんの4種類です。

彼女ら(圧倒的に女の子の方が多いのです)の話を聞くと、本当に辛そうです。社団法人にあてがわれた部屋というのが、ちょっと想像を絶するほど劣悪なものであったり、働いて住む街がシャレにならない辺境の村であったり、実習している先の店の主人がすごい暴君で、ちっともやりたい実習をさせてもらえずに店の掃除ばかりさせられている毎日だったり… 挙げればキリがありません。

彼らのドイツにおける現在の地位は、俗にアツビ Azubi(訓練されるべき者 Auszubildende(r)の略)と呼ばれています。どうも話を聞くに、実習生であるアツビを抱える店にとって、多くの場合彼らは使い勝手の良い労働力として映っているようです。Geselleに比べて賃金には格段の差があり、また Geselleには様々な権利があり、機嫌を損ねるとすぐやめられてしまうために、そうはこき使えないという事情があるようなのです。これこそマイスター制度の旧弊なのでしょう。

でももちろん彼女らは、それが自分の選んだ道であることを知っています。「ケルンにいた時が夢みたいだよぉ」とこぼしながらも、やめたいという言葉は決して口にしません。
彼女らの話を聞いていると、ぼくは自分の今の状況など恥ずかしくて口にも出来ません。

彼女たちが無事 Ausbildungを終えて、Geselleとなる日が来ることを心から祈っています。ぼくは自分を応援するのと同時に、彼女らを応援するためにも、早く五線紙に筆を走らせないといけないなと思います。それとこれとは別の問題ではありますが。

弱音を吐いちゃいけないなとか云いながら、このところどんどんドツボにハマってきてますね。実は今回は、アップしようかどうしようかさすがに迷ったんですが、一度底値をつけてしまえばあとは上ってゆくだろうと、あえて最後の超弱音をまとめて書きました。これ以上書いてたら、そろそろぼくもアブないので、何とかします(笑)


こぼれ話3題 18/10/01

先週末から数日パリに遊びに行ってきました。先輩の作曲家に何人か会って、色々と刺激をもらってきました。がんばってる人と話すのはいいもんですね。こちらも元気になります。
パリに行くと、何か楽譜を買い漁っちゃうんですよね。ケルンでも買えるはずなんだけど。でもやっぱりフランスの出版社のものはフランスで買う方が安いだろな。

さて、パリに行った雑感を書く前に、これまでの体験で話し忘れていたネタを少しまとめて書いとこうかと思います。

まずワルシャワでの話。
最初の一泊はホテルだったのですが(あとはワルシャワに駐在している、高校の時の先輩のお宅にお世話になりました)、部屋に入ってテレビをつけたらドラマをやってました。懐かしの「刑事コジャック」。へぇ〜と思いながらしばらく見てました。……と、何か変。というより、何これ、一体。

登場人物の声が、全部一緒。ていうか、声のトーンも朗読調で、全然セリフって感じじゃない。
要するに、「吹き替え」じゃなくて、「通訳」なんです。日本でもニュースなんかで、外人が喋ってるのを小さな音で流しながら、それに大きくかぶせて日本語で通訳が喋るでしょ? あれと全くおんなじ形態なんです。他のドラマを見てみてもやっぱり同様。

あとで先輩に聞いたところによると、共産主義時代の名残りなんだそうです。もうずぅっとそれで慣れてるから、ポーランドの人達はこの方が好きなんだって。…ふうん。文化の違いって感じですねぇ。
夫婦喧嘩でギャイギャイやってるシーンで、両者のセリフを男のナレーターが落ち着いた口振りで読んでいくのって、けっこうシュールなんですけど。

次はベルリンでの話。
ブランデンブルク門は現在修復中です。ちぇーと思いながら工事中の門の脇の通路をくぐろうとすると、ふと目に止まる扉がありました。「沈黙の部屋」と書いてあります。何だこれ、と一緒に見物していた友人と入ってみることにしました。

「この中では口をきかないこと」と注意書きのある扉を押して中に入ると、椅子が幾つか置いてあって、その上にこの部屋についての説明書がありました。中は薄暗く、その他には壁に毛織りのオブジェが架かっている以外、何もありません。

これはベルリンの、ある市民団体が、あらゆる思想信条、人種、宗教を超えて相互を尊重することを目指して作ったものだそうです。ナチの専制、東西対立を象徴するブランデンブルク門にこれを設けることで、ある強い祈りを打ち出そうという意図が理解できます。これも一つの思想である以上自ずと限界を持ったものではあるでしょうが、とりあえず今のぼくには賞讃すべきものと思われ、その意図に従ってしばし沈黙してきました。ぼくは日本人なので、黙るのは得意です(笑)
こんな時期だからこそ、この部屋は多分大事なものなんじゃないかと思います。

最後は今回のパリ行きで。
今年のヨーロッパ滞在でパリへ行くのは3回目でした。タリスという名の特急で4時間かけて行くのですが、ベルギーからフランスへの国境を越えた辺りでぼくは揺り起こされました。
え、検問? そんなの今まで会ったことないけど。まぁ物騒なご時世だし無理もないかと、パスポートを出したまではいいですが、それでは済みませんでした。

審査官は荷物を全部開けて見せろと云います。カバンの中身も全部。洗顔用具の袋に、ティッシュにくるんでテープで止めてある怪しい物体が見つかりました。「何これ?」「今まで行った国の硬貨を国別にそれぞれ包んだものです。オランダ、オーストリア、ポーランド……」「開けて見せて」「はい…」あぁあ。これ包むのけっこう面倒なんだけどなぁ。乗客全員にやってましたよ、これを。すげー時間かかるだろうに、お疲れさまなことで。まぁちゃんとやってくれた方が安心ではあるけどねぇ…
戦争の影響と云うには、あまりに呑気な話ですけど。


ケルン讃 19/10/01

サイトのカウンタ、ついに3000いただきましたねぇ。嬉しい…
見ておられる方の実数は把握できませんが、リピータになっていただきたいものと存じます。どうぞ今後ともよろしくです。

もうすぐ作ろうと思い立ってから一年経とうというわけですが、それでもまだ当初の計画のまま放ってある部分もありますね。特にlab関係。用意はしてるんですけど、形を整えるのに、ちと苦労してるんです、これが。
あと飾り関係も、全然進歩ありませんね。FlashだのJavaScriptだの、ゼロだもんね。ま、あくまで飾りだから、これは気長にやりましょ。いつか模様替えもしてみますかね。

ところで、「どうしてケルンに住むことにしたの?」という問をいただくことも時々あります。実はこれには正直、あまりちゃんと答えられないんです。一番大事なことと云えば云えるんですが。

特に音大に通うのでない以上、どこに住んでもいいわけで、居住地を決める基準は「音楽的に面白い生活を送れる場所」ってことになります。そうすると、ぼくはやはりヨーロッパのなるべく広い範囲を見たいので、いろんな所に割と気軽に出られることが必要になります。
その点でケルンは、その条件をかなり優秀に満たす都市だと思いました。ケルン自体でも割と面白いコンサートをたくさん聴けますし、パリ、アムステルダム、ベルリンといった他の大都市にも比較的簡単に行けます。

でもどうもこれだけではないような気が、自分の中でするんです。ケルンに来たのには、何かそんな実際的な理由とは違うものがあるんじゃないかと思われてならないのです。それを説明しようとすると、どうしても他の人には噴飯ものの説明しかできないんですが。

10年前に大学の友人4人と一緒に、夏休みの1ヶ月を費やしてヨーロッパをぐるりと回る旅行をしました。イタリア→スイス→西ドイツ→フランス→スペインという感じで。その旅の終わる数日前にソ連でゴルバチョフがクーデタにより失脚するという事件があり、アエロフロート航空を使っていた我々はアワを食ったのですが、それはまぁどうでもいいとして。
その旅程で、我々はかなりの数の都市をめぐりました。どの都市もそれぞれに個性的な顔を持っており、魅力的な都市は沢山ありましたが、その中で「ここにはもう一度来たい!」と強く思った都市が2つありました。ヴェネツィアと、ケルンです。

ヴェネツィアは、行ったことのある方なら何も云わずともお解りと思いますが、あそこは本当に異色の街です。他のどの都市にも似ていません。交通は水路だけで成り立っていて、車が1台も走っていないというだけでも、歩いていて現実感が薄れてくる感じです。でもぼくにとってはやはりここは夢の街で、住もうという気にはちょっとなりません。

一方ケルンはと云うと、駅前のドームに圧倒される以外は、はっきり云って平凡な街です。前回の旅で、我々はこの街には宿泊せず、移動の途中で下車しただけでした。人々の往来は活発なものの、よくある大都市と云ってしまえばそれまで、という感じでした。
でも、その時にぼくは何か特別な感覚を持ったのです。それは歩いていてしっくり来る感じ、としか云いようがないのですが、「ここでなら暮らせるかもしれない」という風に言語化こそしなかったものの、サブリミナルにはそれに近い感覚を持ったように思います。当時一緒に旅行した友人にはこの感覚を解ってもらえるかもしれません。霊感なんて言葉を持ち出したら大袈裟でしょうか。

今回の滞在地をケルンに決めたのは、実際的な理由6割、そしてその非論理的な直観4割という感じです。その結果、ぼくはケルンに来て「しっくり来」てるかと云うと、かなり来てると云っていいと思います。ここは大きすぎもせず小さすぎもせず、適度に都会で適度に田舎で、まさに等身大という感じがします。パリやミュンヒェンなどと比べると本当に見せ場の少ない街なのですが、遠出から戻ってくると、やっぱりホッとします。

思い込みなのかもしれませんが、少なくとも今のぼくはそう思い込めていることを幸せだと思っています。それにしても、何でこの街が好きなんだろう。まだ謎です。


パリとわたくし 24/10/01

最近のケルンは朝の7時半を過ぎないと明るくなってきません。気づいたらそうなってました。夏時間が終わったらそれが1時間早まるわけですが、それは今月の最後の日曜、28日まで続きます。声を大にして云いたいのは、もうとっくに夏じゃねえんだよということです(苦笑)
まぁ他の国のかね合いもあって仕方ないのかな?

今回のパリ行きは、何というか完全に遊びに行ったのですが、何でもなく足を運んでも、ひょいと素晴らしいコンサートが聴けてしまうところはやはりパリですね。今回はロストロポーヴィチ・コンクールの受賞者のガラコンサートを聴くことができました。グランプリのチェリストの音は、やっぱり抜群に美しかったなぁ。

実はぼくはパリには、ある複雑な感情があります。
以前コンセルヴァトワールの作曲科を受験しようとしたことがあって、その時に年齢制限に引っかかって受験を拒否されました。あと3ヶ月遅く生まれていれば、少なくとも一回は受験できたんですけど。でもまぁそれはまだ作曲し始めたばかりの時のことなので、受験しても通らなかっただろうとは思います。受験そのものが出来なかっただけなのだから、別に挫折というほどのことではないのでしょう。それでも時々そのことはぼくの中に蘇ってしこりとなるようです。反実仮想って嫌いなんですけど、どうしようもなく湧き起こってくるものなんですよね。

パリには素晴らしい音楽もたくさん集まってくるし、それ以外にも文化的な見ものや催しは溢れるほどあります。にも関わらず、やはりぼくは今回の滞在でパリに住もうとは初めから考えられませんでした。パリに住むことで、例のしこりがぼくの中から解消される可能性もゼロではないでしょうが、1年間という短期間では、多分逆の可能性の方が強いだろうと思ったためです。

ケルンには特に誰も知人はいませんでしたが、パリには既に活躍している先輩がけっこういます。その人達に囲まれて生活することは、刺激にはもちろんなるでしょうが、逆にまだ何者でもない自分を絶えず直視することにもなり、萎縮し続けたあげくに潰れちゃうんじゃないかという気がしました。それより、パリから少し距離を持って暮らした方が、逆にこの街の素晴らしさを素直に味わえるんじゃないかな、と。

今ではこの選択は多分正しかっただろうなと思っています。自分の弱さは自分が一番よく判っていて、それを弱さとして素直に認めることは多分それほど愚かなことではないだろうと思います。これは甘やかしてるのとは少し違うんじゃないかと思う。云い訳かな^^;)

今回のパリで話した先輩達は、みんなパリが本当に好きなんだというのが体から滲み出ている感じでした。それは見ていてとても健康的で、少し羨ましくなるくらいなのでした。
ぼくも3〜4年住んでみれば、もっとケルンが好きになるだろうなと思います。でも同時に今回の滞在で、自分が本拠地として居場所を見つけるのはやっぱり日本しかないんだということを、ぼくは確認しているところです。

まぁ四の五の云ってても、人生なんて、次の瞬間どう転がっていくかは絶対判んないですけどね。


東欧ツアーのあらまし 21/11/01

ぼくはどうも2ヶ所を同時に更新するということが出来ない人のようです。一時はこっちばかり更新してたんですが。ちゃんと作曲してないということでは、何を更新しようと同じなんですけどね(汗)
滞在顛末記も途中で止まってるし、しょうがないなぁ全く。ていうか、逆境が好転してくるところって書いててあんまり面白くないんですよね(笑) でも一応完結させなきゃね。

ワルシャワから帰ってきたら、「もうそんなに遠出することもないかなぁ」なんて思ってたのですが、何のことはない、先月末からの旅行がこちらに来てから一番の大旅行になってしまいました。
10月27日から11月8日までヴィーンに行き、ここを拠点にブダペシュトとプラハの2つの都市に足を延ばしたのと、そこからケルンに帰って翌日の10日から14日までストックホルムに飛び、スカンディナヴィアの作曲家フェスティヴァルを聴くのとで、足かけ3週間弱のダブル旅行でした。
なんか、少し地球を感じました。

ヴィーンで催される現代音楽祭「Wien Modern」について聞いたのはパリ在住の望月京さんからでした。音楽祭の始まる前日には「Symposion」という少し変わった催しもあるということだったので、ではそこからヴィーン入りしようということにしました。26日の夜行で約12時間かけてヴィーン西駅に到着。その夜に Symposion を、そして翌28日に Wien Modern の初日の、ブレーズ指揮アンサンブル・モデルン・オーケストラを聴きました。
その後しばらくは、次に聴いてみたいプログラムまで少し間がありました。一方で、高校の先輩が、日本から11月初めにヴィーンやドレスデンのオペラ巡りでやって来られると聞いていて、ヴィーンで落ち合おうということになっていました。それまで5日間ほどある。どうしよう。

当初はなんと、一度ケルンに帰ろうと思っていたのです。そしてまたヴィーンに出てくればいいやと。
でも一旦来てみると、やはり12時間の夜行の旅は長いのです。ケルンに帰ってやらなければならないことがあるわけでもなく、ここは一つ、ここまで出てきたのだから、ここから近い別の場所を観光しようかという案が出てきました。ヴィーンは先輩が来てからでも時間はあるのだし。

というわけで、候補地はブダペシュトとプラハの2つ。どっちに行こうかな。ここまで来てやっと決めるあたりがわたくしらしいところで、結局まずは近い方のブダペシュトに行くことにしました。行ってみてまだその気があったらプラハにも行っちゃえばいいやと。

ブダペシュトに行ってみて、あんまりいい街なので衝撃を喰らっちゃいました。人はなんかフレンドリーだし(英語やドイツ語はなかなか通じないけど)、食い物はめちゃくちゃうまいし、治安もそれほど悪くなさそうだし、温泉もあるし。で、すかさず「ここはいつかまた絶対来る!」街リストに加えたので、今回はあまり熱心に見物に回りませんでした(笑)
で、やっぱりプラハにも行ってみたい。直通で行くには途中スロヴァキアを通らねばなりません。でもこの国はたとえ通過するだけでもビザが必要。ビザを取る時間なんてあるわけもないので、ヴィーンに一度帰って改めてプラハに向かうことになります。というわけでブダペシュトには2泊しました。

ヴィーンの西駅に帰って、今度は南駅からプラハに向けて出発。ブダペシュトは2時間半そこらで行けたけど、プラハは4時間半くらいかかる。朝の9時半くらいにブダペシュトを出発して、プラハに着いたのは結局夜7時近くでした。ホテルを探して、夜の街をちょっと流し歩くと、ブダペシュトに較べてちょっと雰囲気が荒んでるような感じがしました。
でも夜の旧市街広場はちょっと忘れられない妖しさを持っていましたねぇ。プラハでは、とにかく歩き回りました。

プラハに3泊した後はヴィーンに戻って、11月の3〜5日の Wien Modern を聴き、6日に Volksoper、7日に Staatsoper を観て、それで翌日の夜行でケルンに帰ってきたという感じです。ストックホルム行きと、ヴィーンなど各地での詳しい話はまた今度にします。

 

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