過去の日々の雑記帳 11-20
日本人 |
Azubi, 我が同胞たち |
休暇終了 |
こぼれ話3題 |
さむい! |
ケルン讃 |
隣の花 |
パリとわたくし |
ワルシャワよいとこ一度はおいで |
東欧ツアーのあらまし |
32歳か……特に感慨なし。 こちらで暮らすと、こちらで働いている日本人に接する必要のある機会もいくらかあります。その度に、ぼくは何だか少しやり切れない気持ちになります。 デュッセルドルフの領事館での話を以前滞在日記で書きましたが、要するに今までぼくが接したヨーロッパの日本人の感じって、ほとんど全部あの感じなのですね。無礼とは云わないけど、慇懃なだけ。とにかくそれだけ。それって、ぼくが見ると、かえってつっけんどんなんです。 具体的な会話を挙げても、文字からニュアンスを伝えるのはとても難しいので、敢えてしませんが、心がちょっと弱くなっているときなどは、けっこう応えます。ドイツ人につっけんどんな対応をされた時の比ではありません。 基本的にヨーロッパの人は、自分の云い方や態度で相手がどう感じるかを気遣うことはあまりないと思います。全くなくはないでしょうが、それは多分日本人が考えるものとは全く違う種類の気遣いです。それよりは、自分の主張を通すことの方が数段優先されます。それが彼らにとって当たり前のことです。 長くこちらで暮らすと、日本人もそうなってしまうのでしょう。外国人の間で気を張って暮らしていると、自分の非を素直に認めたり、相手が何を探しているのか理解してやろうとしたりといった時に日本で美徳とされている種類の優しさは、余計で、たぶん厄介なものになってくるのでしょう。ぼくにはまだよく理解できませんが。 そうなった日本人と接すると、彼らが日本語を使っているだけに、ぼくにはとても奇妙なものに見えてきてしまうのです。そして大抵、何だか非常に寂しい気持ちになります。 多分彼らを日本人だと思うからいけないのでしょう。それが解ればぼくもヨーロッパ生活が板についてきたことになるのかもしれませんが、いかんせんまだ初心者です。日本出身のヨーロッパ人とは、ぼくはあまり話したくないと思っているかもしれません。 何だか今日は愚痴っぽい話になっちゃいました。今度はもっと楽しい話をしましょう。 また何の前触れもなく、えらく更新をサボってしまいました。こういうことでは信頼性を失ってしまいますねぇ。 一旦休んでしまうと、再開するきっかけがつかめなくなっていけませんね。小さいことでもいいからコンスタントに続けようと思います。あんまりブランクが長いので心配のメールを下さる方もいらっしゃいました。ご心配かけましてすみません。ぼくは元気でやっております(^^) 休んでいる間にあったこと、ぼちぼちと書いていきたいと思います。 ニューヨークであった惨事についても聞こえてきて、おののいております。 もうケルンは完璧に秋です。というか、もう初冬と呼びたいくらいです。 ケルンはだいたい北緯51度に位置します。東京が35〜36度くらいかな? かなり違います。強い暖流のおかげで緯度の差ほどには気温は違わないとはいうものの、やはり甘くないですねぇ。緯度の差が生み出す最も大きな違いは、昼夜の長さですね。 地球上のどの地点でも、天気とか山とか考えなければ、年間を通じた日照時間というのはほぼ同じはずですよね。高緯度に行けば行くほど夏は昼が長くて、冬は夜が長くなるというわけで。 夏と冬でそんなに昼夜の差があるということは、秋はもう怒濤のように日々刻々と昼が短くなっていくことを意味します。分厚い雲がいきなり空を覆いだすと、もう1年のうちの「夜」に入ったんだなぁと実感します。こちらの人達が夏あんなに太陽を愛おしんでいたのが今になって理解できます。この前行った寿司屋の板さんが云ってました。 彼の言葉が今ではとてもよく解ります。今はあの店には、お客も戻ってきたことでしょう… そんなこんなでここ数日、憂鬱な気分が続いていました。そこにあの事件もあって、なんか往く手が塞がってしまったような感じでした。引き籠ってる場合ではないんで、いま気分を打開する方法を模索してます。 サイトを開いて一番嬉しいのは、やはりこれを読んで感想を送っていただいたときです。特に期待していなかっただけに、自分の思ったことが少しでも伝わったと知るのは格別の喜びです。 前に「日本人」という項を書いたとき、後味が悪かったんです。「あぁ何かすごく弱音吐いてるよなぁ」って。そうしたらその後、「全く同じ感情を持った経験があります」という内容のメールを複数の方からいただきました。いずれもぼくより先に海外に勉強に来られた方です。嬉しかったのと同時に、その方達のお話を伺うに、自分なんてまだ全然甘い部類なんだと教えられた気がしました。 留学生の作っているサイトはたくさんあります。そういうものを幾つか見ていくと、時折少し暗澹とした気分になったりします。そこではしばしば、海外での友人との洗練されたやり取りとか、現地の人との心温まる触れ合いとかといった話が紹介されています。それにひきかえ…と、どうしてもなってくるわけです。 本当にみんな、そんなうまく行ってるの? 無能者みたいな気がしているのは自分だけなの? などと考え始めるともういけません。外は寒くて、雨続きです。 ちょっと考えてみれば判ることですが、苦労はみんなしているはずなのです。優雅な留学生活なんて、少数の幸福な例外を除けば幻想に過ぎないのです。隣の花は紅く見える、というごくありふれた錯覚に多分ぼくは捕らわれているのです。必要な努力もろくに払わずに。恥じるべきは多分そのことの方です。 友人が持っていた、遠藤周作の『留学』という本を先日読みました。留学先の社会や風土に入り込めない色々な留学生が挫折感を味わう話のオムニバスです。その中の、仏文学者を扱った話では、主人公は後からパリにやってきた後輩に、社会的にも精神的にも圧迫され、最後には結核になって肉体的にも駆逐されてしまいます。この主人公も見事なまでに「自分ダケガ病」にかかっていると云えましょう。何となく読んで身につまされて、気が沈んじゃいました。今のぼくが読むべき本じゃなかった… とにかく云えるのは、そんな風に人と自分を比べても何も生まれないってことです。人は人、自分は自分、です。自分に本当に必要なのは何かをちゃんと考えて、それを得ようと努めることだけが、意味のあることなんじゃないかと今では思います。 今晩の夜行で出発して、「ワルシャワの秋」音楽祭を聴いてこようと思います。ポーランドに入るのは初めてです。楽しみです。 ワルシャワから帰ってまいりました。帰路では途中ベルリンで、ちょうど旅行で来ていた旧友と落ち合って2日間ほど見物してきました。 ワルシャワは思っていたほど陰鬱な街ではありませんでした。治安も心配してたほど悪くないし。って、どんな想像してたんだという話もあるけど。 でもこれは戦災でほとんど失われたものを、戦後にそれは大変な努力で再建したものなのだと聞きます。その「保存」への熱意には、文字通り脱帽させられます。 ともあれ今回の滞在では時間もあったので、けっこう思いっきり観光してきました。ショパンの生家やショパン博物館などにも行ってきました。国立美術館には珍しいイコンがどっさりあって、見入ってきました。 ドイツと比べて一番違うなと思ったのは、アジア・中東・アフリカの人がとても少ないことです。ほとんどポーランド人なのかな? 外国人労働者とかはいないのかな? と思ったところ、ここに来ている外国人労働者はほとんどがウクライナやベラルーシなどからの人なのだそうです。で、ポーランド人はドイツに働きに行くと。んーむ。そういうことか。 なもんで、日本人観光客はまだちょっと珍しい感じです。子供なんかは本当に口開けて見上げていきます(苦笑) いろいろ考えると、外国人である自分は、ここではドイツ語を使うべきではないと思えてきます。そんなわけで英語で通すことになります。ぼくは最近、先にドイツ語で考える癖がついてしまって、来た当初より更に英語が下手になってます(別にこれが、ドイツ語が上達していることを意味するわけではないのがミソ)。ちょっと困った。 最近何か時々変な感覚を覚えることがあって、それは一体何かといえば、人と会って話をするときに身体がまさに「凍って」しまって何も口が動かなくなってしまう瞬間が、たとえ話しているのが日本語であろうと、そうしょっちゅうではないにせよ、間々あるということなのですが、これはまぁそんなにひどいものでなければ、今に始まったことでは決してなく、ぼくは元から少しその毛があるということを自覚していた訳なのですけれど、話しながら頭の方は口に命令を送っているのに口が云うことを聞かないという状態は、一旦意識すると途方もなく苛立たしくなるもので、とりわけ初対面の人と話している場合などは、というのはこちらで暮らしていると会ったことのある人などそんなにいないので自ずから初対面の人と話す機会が増えるからなのですが、そういう場合相手を訝しませたりもするだろうと思ったりして、そう思い始めると相手の一挙一動も自分の心に向かって刺さってくるようになり、次第に心が切れて血が滲んでくるような感覚に襲われたりすると、先日からの鬱傾向が治っていないのかななどとも思われてくるのですが、天気も先週今週と、けっこう晴れ間の覗く日も多く、自分の気分自体はそんなに沈んでいないことを知っているので、それとはちょっと違うだろうと思っていまして、とはいえやはり通常のそれとは少々云いがたい自分の状態を命名するとすれば、軽い失語症か対人恐怖症、要するに何らかの神経症に近いところに位置づけられるようにも思われてくる次第で、このところ身体が風邪にやられていたので、要は心も少し風邪を引いているんだなぁなどと思いながら、今日コンサートの帰り道、市電の駅から家まで空を見上げながら歩いていたら、この頃では珍しく星がとてもたくさん見えて、じっと見ていると流れ星まで1つ2つ走り、一瞬ぞっとするほどの寂しさが襲ってきました。 ……これではいけない。それはよく判ってます。で、この状態を癒すことのできるのは自分しかいません。それも判ってます。…作曲でもしますかね。日本にいた時は、作曲となるともたついて後回し後回しにしてましたが、部屋にピアノもない今、作曲ぐらいでしか、ぼくはぼくでいられないのかもしれません。そんな風に考える時が来るなんて思っていませんでしたが、とすると今は幸せと云うべきなのでしょうね。
語学学校でともに習っていた日本人の友達はもう大方出払って、ケルン以外の町で働いています。彼らの多くは、ここの語学学校の系列の社団法人が行っている職業訓練プログラムのためにドイツに来ています。 彼女ら(圧倒的に女の子の方が多いのです)の話を聞くと、本当に辛そうです。社団法人にあてがわれた部屋というのが、ちょっと想像を絶するほど劣悪なものであったり、働いて住む街がシャレにならない辺境の村であったり、実習している先の店の主人がすごい暴君で、ちっともやりたい実習をさせてもらえずに店の掃除ばかりさせられている毎日だったり… 挙げればキリがありません。 彼らのドイツにおける現在の地位は、俗にアツビ Azubi(訓練されるべき者 Auszubildende(r)の略)と呼ばれています。どうも話を聞くに、実習生であるアツビを抱える店にとって、多くの場合彼らは使い勝手の良い労働力として映っているようです。Geselleに比べて賃金には格段の差があり、また Geselleには様々な権利があり、機嫌を損ねるとすぐやめられてしまうために、そうはこき使えないという事情があるようなのです。これこそマイスター制度の旧弊なのでしょう。 でももちろん彼女らは、それが自分の選んだ道であることを知っています。「ケルンにいた時が夢みたいだよぉ」とこぼしながらも、やめたいという言葉は決して口にしません。 彼女たちが無事 Ausbildungを終えて、Geselleとなる日が来ることを心から祈っています。ぼくは自分を応援するのと同時に、彼女らを応援するためにも、早く五線紙に筆を走らせないといけないなと思います。それとこれとは別の問題ではありますが。 弱音を吐いちゃいけないなとか云いながら、このところどんどんドツボにハマってきてますね。実は今回は、アップしようかどうしようかさすがに迷ったんですが、一度底値をつけてしまえばあとは上ってゆくだろうと、あえて最後の超弱音をまとめて書きました。これ以上書いてたら、そろそろぼくもアブないので、何とかします(笑) 先週末から数日パリに遊びに行ってきました。先輩の作曲家に何人か会って、色々と刺激をもらってきました。がんばってる人と話すのはいいもんですね。こちらも元気になります。 さて、パリに行った雑感を書く前に、これまでの体験で話し忘れていたネタを少しまとめて書いとこうかと思います。 まずワルシャワでの話。 登場人物の声が、全部一緒。ていうか、声のトーンも朗読調で、全然セリフって感じじゃない。 あとで先輩に聞いたところによると、共産主義時代の名残りなんだそうです。もうずぅっとそれで慣れてるから、ポーランドの人達はこの方が好きなんだって。…ふうん。文化の違いって感じですねぇ。 次はベルリンでの話。 「この中では口をきかないこと」と注意書きのある扉を押して中に入ると、椅子が幾つか置いてあって、その上にこの部屋についての説明書がありました。中は薄暗く、その他には壁に毛織りのオブジェが架かっている以外、何もありません。 これはベルリンの、ある市民団体が、あらゆる思想信条、人種、宗教を超えて相互を尊重することを目指して作ったものだそうです。ナチの専制、東西対立を象徴するブランデンブルク門にこれを設けることで、ある強い祈りを打ち出そうという意図が理解できます。これも一つの思想である以上自ずと限界を持ったものではあるでしょうが、とりあえず今のぼくには賞讃すべきものと思われ、その意図に従ってしばし沈黙してきました。ぼくは日本人なので、黙るのは得意です(笑) 最後は今回のパリ行きで。 審査官は荷物を全部開けて見せろと云います。カバンの中身も全部。洗顔用具の袋に、ティッシュにくるんでテープで止めてある怪しい物体が見つかりました。「何これ?」「今まで行った国の硬貨を国別にそれぞれ包んだものです。オランダ、オーストリア、ポーランド……」「開けて見せて」「はい…」あぁあ。これ包むのけっこう面倒なんだけどなぁ。乗客全員にやってましたよ、これを。すげー時間かかるだろうに、お疲れさまなことで。まぁちゃんとやってくれた方が安心ではあるけどねぇ… サイトのカウンタ、ついに3000いただきましたねぇ。嬉しい… もうすぐ作ろうと思い立ってから一年経とうというわけですが、それでもまだ当初の計画のまま放ってある部分もありますね。特にlab関係。用意はしてるんですけど、形を整えるのに、ちと苦労してるんです、これが。 ところで、「どうしてケルンに住むことにしたの?」という問をいただくことも時々あります。実はこれには正直、あまりちゃんと答えられないんです。一番大事なことと云えば云えるんですが。 特に音大に通うのでない以上、どこに住んでもいいわけで、居住地を決める基準は「音楽的に面白い生活を送れる場所」ってことになります。そうすると、ぼくはやはりヨーロッパのなるべく広い範囲を見たいので、いろんな所に割と気軽に出られることが必要になります。 でもどうもこれだけではないような気が、自分の中でするんです。ケルンに来たのには、何かそんな実際的な理由とは違うものがあるんじゃないかと思われてならないのです。それを説明しようとすると、どうしても他の人には噴飯ものの説明しかできないんですが。 10年前に大学の友人4人と一緒に、夏休みの1ヶ月を費やしてヨーロッパをぐるりと回る旅行をしました。イタリア→スイス→西ドイツ→フランス→スペインという感じで。その旅の終わる数日前にソ連でゴルバチョフがクーデタにより失脚するという事件があり、アエロフロート航空を使っていた我々はアワを食ったのですが、それはまぁどうでもいいとして。 ヴェネツィアは、行ったことのある方なら何も云わずともお解りと思いますが、あそこは本当に異色の街です。他のどの都市にも似ていません。交通は水路だけで成り立っていて、車が1台も走っていないというだけでも、歩いていて現実感が薄れてくる感じです。でもぼくにとってはやはりここは夢の街で、住もうという気にはちょっとなりません。 一方ケルンはと云うと、駅前のドームに圧倒される以外は、はっきり云って平凡な街です。前回の旅で、我々はこの街には宿泊せず、移動の途中で下車しただけでした。人々の往来は活発なものの、よくある大都市と云ってしまえばそれまで、という感じでした。 今回の滞在地をケルンに決めたのは、実際的な理由6割、そしてその非論理的な直観4割という感じです。その結果、ぼくはケルンに来て「しっくり来」てるかと云うと、かなり来てると云っていいと思います。ここは大きすぎもせず小さすぎもせず、適度に都会で適度に田舎で、まさに等身大という感じがします。パリやミュンヒェンなどと比べると本当に見せ場の少ない街なのですが、遠出から戻ってくると、やっぱりホッとします。 思い込みなのかもしれませんが、少なくとも今のぼくはそう思い込めていることを幸せだと思っています。それにしても、何でこの街が好きなんだろう。まだ謎です。 最近のケルンは朝の7時半を過ぎないと明るくなってきません。気づいたらそうなってました。夏時間が終わったらそれが1時間早まるわけですが、それは今月の最後の日曜、28日まで続きます。声を大にして云いたいのは、もうとっくに夏じゃねえんだよということです(苦笑) 今回のパリ行きは、何というか完全に遊びに行ったのですが、何でもなく足を運んでも、ひょいと素晴らしいコンサートが聴けてしまうところはやはりパリですね。今回はロストロポーヴィチ・コンクールの受賞者のガラコンサートを聴くことができました。グランプリのチェリストの音は、やっぱり抜群に美しかったなぁ。 実はぼくはパリには、ある複雑な感情があります。 パリには素晴らしい音楽もたくさん集まってくるし、それ以外にも文化的な見ものや催しは溢れるほどあります。にも関わらず、やはりぼくは今回の滞在でパリに住もうとは初めから考えられませんでした。パリに住むことで、例のしこりがぼくの中から解消される可能性もゼロではないでしょうが、1年間という短期間では、多分逆の可能性の方が強いだろうと思ったためです。 ケルンには特に誰も知人はいませんでしたが、パリには既に活躍している先輩がけっこういます。その人達に囲まれて生活することは、刺激にはもちろんなるでしょうが、逆にまだ何者でもない自分を絶えず直視することにもなり、萎縮し続けたあげくに潰れちゃうんじゃないかという気がしました。それより、パリから少し距離を持って暮らした方が、逆にこの街の素晴らしさを素直に味わえるんじゃないかな、と。 今ではこの選択は多分正しかっただろうなと思っています。自分の弱さは自分が一番よく判っていて、それを弱さとして素直に認めることは多分それほど愚かなことではないだろうと思います。これは甘やかしてるのとは少し違うんじゃないかと思う。云い訳かな^^;) 今回のパリで話した先輩達は、みんなパリが本当に好きなんだというのが体から滲み出ている感じでした。それは見ていてとても健康的で、少し羨ましくなるくらいなのでした。 まぁ四の五の云ってても、人生なんて、次の瞬間どう転がっていくかは絶対判んないですけどね。 ぼくはどうも2ヶ所を同時に更新するということが出来ない人のようです。一時はこっちばかり更新してたんですが。ちゃんと作曲してないということでは、何を更新しようと同じなんですけどね(汗) ワルシャワから帰ってきたら、「もうそんなに遠出することもないかなぁ」なんて思ってたのですが、何のことはない、先月末からの旅行がこちらに来てから一番の大旅行になってしまいました。 ヴィーンで催される現代音楽祭「Wien Modern」について聞いたのはパリ在住の望月京さんからでした。音楽祭の始まる前日には「Symposion」という少し変わった催しもあるということだったので、ではそこからヴィーン入りしようということにしました。26日の夜行で約12時間かけてヴィーン西駅に到着。その夜に Symposion を、そして翌28日に Wien Modern の初日の、ブレーズ指揮アンサンブル・モデルン・オーケストラを聴きました。 当初はなんと、一度ケルンに帰ろうと思っていたのです。そしてまたヴィーンに出てくればいいやと。 というわけで、候補地はブダペシュトとプラハの2つ。どっちに行こうかな。ここまで来てやっと決めるあたりがわたくしらしいところで、結局まずは近い方のブダペシュトに行くことにしました。行ってみてまだその気があったらプラハにも行っちゃえばいいやと。 ブダペシュトに行ってみて、あんまりいい街なので衝撃を喰らっちゃいました。人はなんかフレンドリーだし(英語やドイツ語はなかなか通じないけど)、食い物はめちゃくちゃうまいし、治安もそれほど悪くなさそうだし、温泉もあるし。で、すかさず「ここはいつかまた絶対来る!」街リストに加えたので、今回はあまり熱心に見物に回りませんでした(笑) ヴィーンの西駅に帰って、今度は南駅からプラハに向けて出発。ブダペシュトは2時間半そこらで行けたけど、プラハは4時間半くらいかかる。朝の9時半くらいにブダペシュトを出発して、プラハに着いたのは結局夜7時近くでした。ホテルを探して、夜の街をちょっと流し歩くと、ブダペシュトに較べてちょっと雰囲気が荒んでるような感じがしました。 プラハに3泊した後はヴィーンに戻って、11月の3〜5日の Wien Modern を聴き、6日に Volksoper、7日に Staatsoper を観て、それで翌日の夜行でケルンに帰ってきたという感じです。ストックホルム行きと、ヴィーンなど各地での詳しい話はまた今度にします。 |
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