薄明かりの淵から(9) 大澤恒保
[心が生きる]
女神サンの手術成功から年が明け、1999年の正月。彼女はまだ入院中でしたが車椅子から僕に電話してきたりして元気いっぱいです。「ここまで来た。何ということだ!」と当時の僕の日記には書いてあります。毎年こんな感慨を抱き続けてきたんですね。この年はまたみなさんご存じの「ハルマゲドン」とかいうアホくさい『世界崩壊』予言の年にも当たっていました。
僕はかつて私塾という「居場所=心が生きる場」で、まだ歩き回ることもできていたころ、生徒たちに「お前らハルマゲドンまで生きてなきゃならんのだゾ」とか冗談を言っていたものですが、まさか自分がこの年まで存在するなんてまるっきり考えてもいませんでした。「来年のことを言うと鬼が笑う」といいますが、そのとおり、半年後のことを考えるだけで心の地獄の鬼がゲタゲタ、ギャハギャハやかましくて仕方ありませんでした。ばかばかしいことにそれが何十年間もです。その地獄にクモの糸ならぬ女神サンの糸ということになった次第です。
このときに、もしも娘ではないだれかが北大病院で脊髄腫瘍摘出に成功したなどという(信じがたい)情報が入ったとしても、僕はきっともはや入院する気にならなかったでしょう。僕は1949年生まれで「人生50年」というところまでは来たことになるわけですからね。上等、上出来です。けれど、この導き主は実の娘という女神サンです。血のつながりとかは僕はふだんほとんど重視しないタチですが、このときはやはりかなり重たく考えましたね。まさにこれは「血」という名の遺伝子でのつながりでもあるわけですから。
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退院後の娘から手紙やファックスが次々に届いて、とにかく北大のドクターに僕の現状を話して相談に乗ってもらうほうがいいと言います。至極もっともな薦めです。
僕も娘を助けてくれた先生たちにせめてお礼状だけでも、と考えていましたから早速長い手紙をしたためました。まずは娘の主治医の先生に。この先生、脊髄部門が専門で脳部門のあのブラックジャック先生とは別のチームになっているようですが、たぶんそこのリーダー的な存在です。でも決してエラソウな態度を見せず、いつでも飄然としていてまたとても親身な人です。リーダー先生とでも紹介しておきましょう。そして彼に紹介されて「リンドウ病」の権威、泌尿器科のビッグジャック先生宛にということになりました。
で、この2人のドクターとの手紙のやりとりでいろんなことを確認することになったのですが、そのほとんどが僕の予想どおりでした。リーダー先生の説明によると娘の腫瘍は直径20ミリという大きさで、まだ水を出すところまでは行っていなかったとのことで、要するに早期発見、早期治療が効を奏して復活へとつながったことになります。でも僕のは長く放任し過ぎました。たぶん生まれつき持ってきたモノですから50年、みごとにヤクザな成長ぶりです。素人目でフィルムを見てもはっきり分かるほどに腫瘍の上下に水がたっぷりで、いわゆる「脊髄空洞症」の状態を引き起こしていました。脊髄内の神経が腫瘍に阻まれて上下つながりにくくなっているんです。いや、押しつぶされてほとんど断絶しちゃってると言っていいくらいです。足が動かないのも当たり前で、生き残っている神経がまだあるのが不思議なほどでした。
要するにある意味ではもう「手遅れ」です。そのとおり、「手術はできるが、神経が回復する可能性は少ない」ということもここで承認しました。ただこのまま放置すればやがては神経が次々と死に絶えて、上半身にマヒが進み、車椅子に座ったままでも身体のバランスがまるでとれなくなったり、顔がひん曲がるなどという経過を経て後に呼吸機能が奪われてお終いになる。脳外科的にはそういうことが当然予想される段階だったようです。腎臓のほうは前にも書きましたが、直径5センチとのことでこれもすぐに手術したほうがいいとビッグジャック先生にていねいな説明を受けまして・・・でもこちらは結局逃げちゃったわけですけどね。
延命が目的ではなく、今後を生きるのに少しでも不自由度が少ない道を選んだということになります。上半身までマヒしての症状悪化の各段階を生きるのはどう考えても苦しすぎます。でも前回自白済みのように僕は根っからの臆病者で、「今は死ねない」理由なんぞもたくさん思いついていたわけで、どうやら自殺もできそうにない。どうすべきか、正直迷いに迷いまして、しかしそのうちにこの足の神経回復などもわずかにでもあり得るんじゃないかなどノーテンキな気分さえも出てきましたが、やはり術後に更に生きにくい身体になることを覚悟することのほうが大事でした。
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で、最終的に思いついたのが「娘のため」とか「息子のため」というまたまた都合のいい口実です。遺伝子病だと分かった以上、そして娘までが発症した以上、これはオレたちの宿命そのものだ。血のつながり故に起こる運命だ。だからそれは無視せずに受け止めなくてはならない。だが、娘の手術成功で「受容=諦め」ということではなくなったことになる。こうなった以上、宿命だからこそ突き破るべきモノになった。ここまでは娘が女神サンとなって切り拓いた道筋だ。脊髄内腫瘍の手術もできるということを彼女が身をもって証明してくれた。あとはもう絶対的にオレの義務だ。リンドウ病なるものをどこまで克服できるのか、ここから先はこの身体を調べ上げて、その遺伝子情報をまずは娘と息子に手渡し、それを数少ない他の同病者たちにも手渡す。愚かしく引き延ばしてきたこの命を賭ける絶好の機会到来、と考えるべし。そういうことです。
息子はこの年の春に高校生になるというところでしたし、前記のとおり僕の「作品」も4月に出版される予定でした。だから入院は4月以降にしようと決めました。「4月まで生きていよう」が「4月に入院しよう」に変わったわけです。
だがこれはただ延命を望むということではない。身体は死んでもいい。瞬時でも「心が生きる」ために手術を受ける。だからいざという場合には気管切開はもとより、気管内挿管も断固拒否する。そのことだけは妻や息子にはっきりと伝えておこう。手術で命を失おうともそれはそれでいい。いやむしろ、そのほうがいい。不可抗力で死ねればそのほうがありがたい。
一度はそうも考えました。でも女神サンの成功例をみても手術死はどうやらなさそうだし、それにやはり身体もここで死んではダメなのでした。死に意義を持たせるなんてこと自体、僕の個人的「信」が認めません。術後の日々をどうやってどれほどしぶとく生きたかという情報だけが手渡す意義がある。生きたいのじゃない、生きるべきなんだ。もしかすれば回復するかもというノーテンキな気分はまもなく消えましたが、たとえ不自由度が増してももっとぎりぎりまで生ききってみせる。そんな一種悲壮な気持ちでした。そして僕は結局女神サンの糸をつかみ、それををたぐってみるということになりました。
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この後のことは「薄明かりの淵から」の最初のころに吐露したことへとつながっていくのですが、札幌行きは99年の5月9日でした。このときは妻も長期の介護休暇は取らず入退院のときの介護と手術日前後だけの付き添いですみました。新幹線で東京まで出て、そこから羽田までは車椅子のままで介護タクシーを使い、羽田の搭乗口では機内用の車椅子に何とか自力で乗り移りました。一瞬ならばまだ立ち上がることもできたわけで、足は今より少しマシな状態だったんです。
この夜は札幌のホテルで一泊しました。そこへかの室蘭の同期生も奥さんと駆けつけてくれ、またすっかり回復した娘と王子サマも苫小牧から来てくれまして、アルコールとは当分(気分的には永久に)お別れとて、レストランで、また部屋に戻ってまさに深夜まで痛飲しました。王子サマの写真と声にはなじんでいたのですが会ったのはこれが初めてでした。「おう、いい男じゃないか」ってのが最初の印象(ややお世辞)です。頑丈そうな身体をしているのに気持ちの根っこに細かい気配りがにじみ出ているのがよく分かりました。
翌日の入院手続きは妻とこの2人が付き添ってやってくれて、僕は何かやたら懐かしいような奇妙な気分でいました。根本治療などありえないと思いこんで遠ざかっていたんですが、自分自身が入院患者になるのは数えてみれば30年ぶりです。でも、いざ病室に入り、指定のパジャマに着替えると覚悟が定まったというか、「オンボロ・トロッコ発車!」ってなもんです。あとはレールをころころ行くだけだとなりました。検査が続く間、妻は一度群馬へもどり、僕は独りで車椅子を操作して、検査の合間を縫ってしょっちゅう喫煙所に通い、ここでたくさんの人たちとなじみになりました。
その一人がミスター・ダンディなのは言うまでもないことですが、妻を帰して独りになってからはとにかくこの喫煙所近辺が僕の「居場所」みたいになりました。ここでは患者も付き添いもみんな重たさ、きつさをたっぷりと抱え込んでいる人たちばかりで、建前的な同情なんぞはまず口にも出しません。みんなよく分かっているんです。それでもわずかなことに慰安や笑いを見つけだして、ホントはどうにもやりきれないのに「その時」を楽しんじゃうという独特の「たまり場」になっていました。悲しさや虚しさを何重にも折り畳んだ笑顔が並びます。でも、ここでのことにはまた後で触れます。
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今回退院して自宅療養(実際はタバコとビールの日々)に入り、僕は「よさこいソーラン」本番の日はテレビ欄を真剣に探して、ニュース番組をずっと注視していたんですが、残念ながら群馬ではどのチャンネルでもこのイヴェントを放映せず、審査結果さえ分かりませんでした。で、やむなく翌日にミスター・ダンディに電話すると「2位!」と。全国から408チームが参加したそうで、そこでみごとに準優勝です。彼ら「石狩流星海」はどこかの高校野球部みたいに優勝目指してあちこちから上手いヤツを探してくるなんてことはいっさいせずに、地元生粋の男女が大人、子ども入り交じって編成されているチームで、それだけにホントたいしたもんです。
後日、ミスター・ダンディがビデオ・テープを送ってきてくれました。僕を乗せてくれると彼が言った山車が飾り付けも鮮やかに先頭を行き、見覚えた姿たちが札幌大通りを舞い歩き、また著名人など呼んで地元のテレビが放映した大会場発表の「本番篇」と、ダンディさんいわく「大澤バージョン」が一緒になったテープです。そしてこの「大澤バージョン」ではカメラが時々僕ら4人にも向けられていて、そこで何とあのドラゴン王子サマが涙を拭っているじゃないですか。妻も泣いていたようです。でも、(実際は目元拭ったりしていたのかどうか分かりませんが)画面に映った限りでは女神サンのそういうシーンはなく、デブった僕はあくまで泣かないままでした。感応し、心が跳ねて、それが自然に発露する感涙。たぶん人間の一番いいところですよね。「さすが、王子サマ」とか想いながら、僕も素直に泣いちゃえ
ばよかったんだよなあ、とやや変な後悔をしました。最初はこれを自宅で妻と息子と3人で観てこのときはやはり涙は出ず、その後ひとりで何度か観直してるうちにあの日のことが彷彿としてきてボトボト涙が流れました。
人前では泣かない。長いことそう意地張ってむりやり踏ん張ってきたんですね。まあ女神サンは看護婦という職業柄そういう訓練を積まざるを得ない点もあるのでしょうが、僕などはやっぱりつまらん見栄っ張りです。ひとりのときなら例えば昔々の「水戸黄門」の再々放送なんぞに感涙流してたりするんですから。
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この「大澤バージョン」のライブ会場たるスタジオは2階建てになっていました。一階は事務所ふうで、舞台となるところは2階にあり、エレベーター設備はなく、見物者たる僕らは15,6段はありそうなかなり急な階段を昇るしかないのですが、ここで王子サマがその怪力ぶりを発揮しました。入院中にたぶん10キロ以上は太って、60キロを超えていたであろう僕の身体を彼は一人ですっと「お姫様だっこ」で抱き上げてまさに軽々という感じで2階まで運び上げてくれました。
彼はパンクロックのドラマーをやっていて、今のところ日々の金稼ぎ仕事はコンビニの荷物搬送みたいなことらしいんです。ですから僕くらいの重たい生モノを運ぶのにはすっかり慣れていて、しかも傷つけたりしないよう、その扱いもとてもていねいです。そして、そのことが繊細さやさりげなさとしていろんな面に現れます。いや、逆ですね。心のそういう豊かな機微が現実場面にきっちり現れるんです。
彼がどんなところでどんなふうに生きてきたのかを僕はほとんど知りません。生まれとか、学歴とか、職業とか、僕にとってはそういうことはまるでどうでもいいことだからです。さらに僕などは娘に対して父親らしいことの一切を放棄して好き勝手に生きてきたわけですから、父だと名乗るのもおこがましい存在で、こうして2人がこんな僕の前に女神サンと王子サマして立ち現れてくれたこと自体がいわば奇跡的なドラマです。疎まれ憎まれ切っていても当たり前なんですからね。
また今回の入院直前、ボケた頭で札幌へ行くかどうかぐずぐず迷っていたときに彼らは群馬まで来ようとして、職場への休暇願を出すのに、「恋人じゃなく妻の」父親が危篤っていうきちんと世間的に認められる理由にするために入籍したみたいです。どうでもいいことなのに法律とか世間とかは「恋人」と「妻」とをきっちりと分けていますからね。まあ、そんなことはなくてもいずれは結婚という形をとる予定でいたのは確かでしょうが、僕のジタバタがそのちょうどいいきっかけにはなったかな、とか勝手に思っています。
(次号に続く)