薄明かりの淵から(8) 大澤恒保
[女神サンと王子サマ]
ミスター・ダンディのご馳走について書きながら、当然触れるべきことを後回しにしました。別に隠そうと思っていたわけではなくて、触れればどうしても長い説明が必要になるからです。
群馬にいながら僕がなぜ北大病院にここまで世話になることになったのか、ダンディさんたちとなぜこうも親しくなれたのか、どうして室蘭の彼と30年という長い年月「遠距離交友」を続けて来られたのかと、さまざまな「なぜ?」に対しての答えというか、種明かしというか、前もってわずかに言い訳しておいたことをここから書いてみます。
実はこの間のすべての導きの糸は「僕の娘」の存在なんです。前拙著「ひとりのひとを哀れむならば」に少しだけ登場した当時2歳だった娘です。そのときの彼女は僕のロクデナシに発した離婚騒動のいわば一番の被害者だったわけですが、それから22年という長い長い年月が経って、今度は女神サンとしてこんな僕を救いに現れたことになります。しかも、自分の身をもって、自分の身体を痛めつけて、です。
インターーネットなどを使って北大病院脳外科の存在を知り、全国各地から北海道までやって来ている患者がたくさんいるけれど、僕はそういう点ではまったくの無知、怠惰だったということを前に触れました。いや、パソコンなる物を巧みに駆使する人たちが周囲にもたくさんいるということは知っていました。でも自分でそれを使うなどということは考えてもみず、インターネットで検索などというワザは現代のSF世界のできごとで、自分とはまったく無縁のモノと思い決めていました。ですからこの娘からの情報がすべての始まりだったのです。しかもその情報は僕にとってとんでもなくショッキングな事件としてもたらされました。
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彼女自身の発症です。
長年心の中で怖れ続けてきたことが起きてしまったことになります。彼女はどうやら僕らの「リンドウ病」を引き継いでしまったらしい。このいやらしい病気は僕の母親から始まり(それ以上はさかのぼって調べようもないという意味)僕の末弟、僕自身、次弟と続き、しぶとく生き延びているのは僕だけというときになって、ついに娘にまでつながってしまったわけです。僕はノーテンキに構えながらもこの病気はオレで最後になってくれと(神仏にではなく)ずーっと心中に念じ続けてきたのも確かです。でもそのような「祈り」など結局は空しく、傷付いた遺伝子とやらが地下水脈みたいにまだ存続しているということになりました。そうなんです。これはやはり遺伝病でした。そのことが(たぶんアメリカの)医学界で確認されたのが、つまりこの病気は、発見者の名前をとってフォン・ヒッペル・リンドウ病と正式に名付けられているのですが、その頭文字をとっての「VHL遺伝子」なるものの存在が確認されたのが1993年だということで、思えば僕の次弟が亡くなる1年前のことだったわけです。
これはかのビッグジャック先生との手紙のやりとりで分かったのですが、ドカッ!という衝撃でした。前に説明したこととダブリますがもう一度書きます。弟の発症で、その原因究明のために群馬や東京のさまざまな大学病院をあちこち尋ね歩いていた80年代には、「リンドウ病」という名前を一度は聞いていましたが、「遺伝性はなく、腫瘍も良性のモノだが、なぜか家族的に発症する」という説明を受け、「世界でも数例しかない」とも言われていました。つまり遺伝病ではない、ということだったわけです。
ではいざどんな治療がどこへ行けば受けられるのかということに関しては何も分からず、要するに名前が付いただけでした。僕は海外でもどこへでも弟を連れて行くぞと意気込んでいたのに、どの病院でも特に脊髄の腫瘍と空洞症についてはただ首を振ってお手上げの仕草を見せられただけです。例の「冷凍にして手術ができるようになる(遠い未来)までムリ」という宣告を受けたのもこのころです。
ビッグジャック先生はその当初からリンドウ病に関わり初め、「VHL遺伝子」発見後の5年間で、つまり僕の娘が発症したこの1998年までに北大病院ですでに5家系を診てきたということでした。この病気の存在はずっと前から分かっていたのですが、所詮「世界の奇病」でしかなく、原因も治療法もわからないということでした。だから2002年に入った今現在でも日本の「難病指定」とかにはその名前すら挙がっていないはずです。潜在患者はきっとたくさんいるに違いないのですが、政府として取り組むにはその症例発見自体が少なすぎるんでしょうね。脳外科医でも泌尿器科医でもこんな病気の存在さえ知らない人が無数にいるに決まっています。いや、知っているドクターのほうが圧倒的に少ないはずです。ですから次弟を助けるには到底間に合わなかったわけで、彼の発症があと10年遅れてくれていたら、と思うと悔しくてなりませんが、これはもうどうしようもないことです。
腎ガンは脳腫瘍や脊髄腫瘍が発症した後で分かる場合が多いとのことで、リンドウ病患者は後期の事態になってから泌尿器科のビッグジャック先生たちの持ち場へと廻ってくるらしく、脳外科段階から関わる必要性を痛感してきたと彼が言うのが痛く分かります。僕が依頼した弟の解剖結果でも当然のように腎では左右両方にガン多発ということでした。ただ他の臓器への転移はなかったとのことですが、しかしそんなことは聞いてただ空しいだけのことでした。
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娘のことに話を戻します。2歳で別れてからまた連絡を取り合うようになった経緯についてはやはり相当長くならざるをえないのでやがてまた触れることもあるかと思いますが、今はとりあえず割愛してこれは1998年11月の段階でのことで、娘はすでに24歳です。彼女がそこまで脳腫瘍など何ら大きな病気を患わずに来たこともあって、この病気はどうしたって遺伝子の仕業だと勝手に思っていた僕も、彼女に関してはまず大丈夫、(遺伝子クンどうやらオレで終わりだね)とやや安堵していたところでした。ですから彼女からの異変のファックス第一報には「まさか!」の思いが吹き出ました。
彼女、母親が臨床検査技師ということもあってか(もしかすれば僕という最低のオヤジのことも考えてくれていたのかも知れませんが、これはあまりにもずうずうしい推測なので彼女に訊いてみたこともありませんが)、早くから医療現場で働くことを決めていました。そして室蘭の看護婦学校を卒業し、そこで3年の「お礼奉公」など済ませてこの年に実家があり母親が住む苫小牧の病院に転勤したばかりでした。異変の最初は腰痛と左足の痛みとしびれということで、整形外科でまずは「椎間板ヘルニア」を調べてみるということでした。だが、こんなのはもちろん無駄な検査でした。父親や叔父が「リンドウ病」と言われていることを伝えてすぐに北大病院での精査ということになり、11月「13日の金曜日」にまさに忌まわしきファックス第2弾でした。ミエログラフィーというきつい、かつて20歳の僕が怖れをなして逃げ出した血管造影の検査を受けることになりました。
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このころの僕はよく日記を付けていまして(書かずには存在できない気分だったのですが)、今はそれを読み直しながらこれを書いています。だから日付の類は間違いありません。僕自身の身体もついに来るところまで来たの感あって、予備校講師はもう辞めていたし、20年以上続けてきた私塾も翌99年3月で閉じることに決めたところでした。
生徒の机を回ってそれなりに指導ということも、椅子からちょっとだけ立ち上がって板書するという他愛もないことさえ不可能になり、ただ生徒の居場所を提供できればの一心でかろうじて文字通り這いながらやってきた塾です。居場所とは閉塞感強まる一方の社会の中でなんとか呼吸できる場所というくらいの意味で、まあコーヒーも出さない「たまり場喫茶店」みたいなもんです。したがっていざ閉じるとなったときは生徒の居場所(=僕自身の居場所)を潰すことでもあったわけで、悔しく辛い決断ではありました。
死ぬべきときがそこまで来ているという自覚は強くなっていましたし、それをどう受容しようかとあれこれ考えてもいました。弟たちの悲惨な最期を看取ってきただけに、死というモノがすんなりとは来てくれないことも分かり切っていましたから、自殺という手段を考えなかったといえば嘘になります。場所も方法も日程も考え・・・でも僕は生来の臆病者でもありました。そしてかつてのようにまたぞろ、周囲に及ぼす大迷惑のことなどがわき上がってきたりもしました。自殺だけは絶対にやってはならないなどと考え直し、生きていくことで周囲に与える過重負担と自殺することでの迷惑の重さ比べなども自分勝手にやって、結局はどちらが重いか決めかねるままに、目の前にある「やるべきこと」に専念するということになりました。「とにかく今は死ねない」という実に都合のいい自殺回避の手段をひねり出したことになります。この「今やるべきこと」はいやなこともうれしいことも含めてのことで、塾を閉じるに当たってのあれこれだけでもそれはそれはたくさん出てきました。
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そしてまた、ちょうどこのころに僕たちの本ができあがってもきました。あの大震災の後の神戸で、「まったく無名のオレなどが・・・冗談だろ?」という気後れを踏みつぶして、この夏にやった「対談」をまとめたモノです。話し相手はその友人の高校時代の恩師であって、左足一本、松葉杖という姿で教師を続けてきて、著書も多い文学者です。浅田修一さんという、俳優の原田芳男みたいな野武士的貫禄(?)のある人でした。
「対談」といっても実態は泥酔するまで飲んでのメチャクチャ赤裸々な告白で、僕は今読んでもひどく赤面せざるを得ないことばかりしゃべってしまったモノなんですが、それを「ことばだけではさびしすぎる(ぼっと社)」と題した本にしたもらったところでした。これは企画したその友人がテープにとって起こす作業をそっくりやってくれて、さらに構成、校正まで引き受けてくれたもので、いわば「彼の作品」ですが、それの内輪での出版祝いなどをやろうというときでした。ここで死んだりしたら浅田さんにもこの友人にも失礼千万ということで、これも死ねない口実の1つになりました。
さらにこのときは「蓮如賞」という「ノンフィクション」分野での新人賞レースに応募して、お目当ての一等賞200万円を逃したときでもありました。でも佳作の僕の「作品」も河出書房新社が出版してくれることが決まって、本にするための加筆訂正や校正の作業が始まったところでした。一冊でいい、自分の本を出してみたいと長年想ってきた僕なのでこの2つは夢のようなことでした。それにしゃべった言葉が活字になって現れるというのとはまた違って(対談内容は間違いなく自分がしゃべった言葉たちなんですが、僕は何か後になって「確かにこうゲロしたぞ!」と自白調書を確認させられているような重苦しい気持ちにもなっていました)、今度のこれは自分で「書く」という作業をしたモノです。だから、それなりにウキウキ気分も加担していたのは確かです。
これは母と弟2人、そして自分自身への鎮魂歌にしたいと思った「作品」ですが、正直に言ってそれとともに当然ながら「遺書」のつもりで書いたモノです。それが本になって本屋さんに並ぶ様子などを想像するとやはりどこかニヤニヤした気分にもなっていました。加筆も校正もその作業は実に苦しくまたその分愉しいものになるのですが、とにかくこれだけは精一杯やりきってみよう、とやっぱり都合良くしばし生き残る口実にもなりました。4月に出版というので、新しい夏物をもらったときの太宰治を気取り、「・・・4月までは生きていよう」とか本気で思ったものです。
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そこにバシャッっという冷水です。いや、氷かドライアイスのかたまりがドカーン!と頭上に落ちて来たようなもんです。娘は検査結果から脊髄腫瘍2個を確認。そして今障害を出している仙骨のあたりにある1つを摘出すべく、即座に入院手術ということになりました。(手術だって?ホントに?本当にできんのかよー!)何をどう考えればいいのかまるで分かりませんでした。(手術なんてあり得ないとオレは30年間そのことを前提にして生き恥さらし続けてきたんだ。弟はついこの間死んだばかりなんだぜ!) しかもその予定日が12月24日、クリスマス・イヴです。これは僕が高校3年生のときに小脳の腫瘍摘出を受けた日とまったく同じです。「まさか!まさか!」とそればかり口走って茫然自失です。居ても立ってもいられないとはまさにこのことで、「宿命」といういや〜な言葉が頭の中でどうしようもなく乱舞しました。完全パニックです。しかし、心はパニックでもじたばた暴れ回るのはもちろん、2,3歩移動することさえうまくできず、どう焦っても北大病院まで駆けつけようもありません。また誰かに介護してもらってたとえ必死でたどりついたとしても、結局はベッド脇でおろおろするしかないし、それも隣ベッドにでもやはり重傷者として収容されに行くという形にもになりかねず、苦しい娘たちにさらに余計な負担をかけるだけです。結局、家でハラハラ、イライラ連絡を待つだけということになりました。
彼女の母親、つまりかつて僕の妻だった人も当然大パニックに陥ったようでしたが、僕のようにただうろたえて待つというわけにもいかず、それこそ噛みつかんばかりにドクターにあれこれ質問ばかりしていたとのことです。僕や弟が手術などまるで不可能だと宣告され続けてきたことも彼女は知っていますから、きっと半狂乱みたいになっていたのでしょう。ドクターが「患者本人よりもお母さんの方がよっぽどアブナイ」とまで娘に話していたそうです。
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でも幸いなるかな、娘にはこのときすでに恋人が、白馬ならぬドラゴンにでも乗ってきたように逞しい王子サマがいて、室蘭での仕事を捨てて苫小牧に職を見つけ、それこそ病院にへばりつくほどに至れり尽くせりの看護をしてくれました。娘本人もこの王子サマによって大きく心の平安を得ていたのは間違いないし、情けない父親たる僕への電話連絡も彼がやってくれ、おかげで僕自身もずいぶん安心できたものです。
で、12月24日、彼女の脊髄腫瘍はやはり僕と同じ「血管芽腫(アンギオブラストーマ)」で、何本もの血管が腫瘍に入り込んでいるモノでしたが、こここそが北大病院脳外科のすごさが発揮されたところです。急遽入れた血管造影の検査で「腫瘍が血管に富んでいる」ということがはっきりし、この日は「動脈塞栓術」という手術になりました。僕が今回受けたのとはまた違う方法なのかどうか分かりませんが、100ミクロンという大きさの何やらコルク状のモノを腫瘍へ流れ込む動脈一本ずつに詰めて血流を止めるという離れ業で、摘出手術での出血を抑えるための処置です。これは全身でなく局部麻酔で行われて4時間もかかったということで、彼女の味わったきつさは想像を絶します。
この日僕は早朝というより深夜1時半ころに起き出して、まったく落ち着かない時間を例の「作品」の加筆校正でやり過ごしていたのですが、当然「心ここにあらず」で、いじればいじるほど文章の出来はひどくなるという一日でした。手術は午後5時から始まり、出てきたのが夜9時とのことでしたが、周囲の不安を吹き飛ばしてこの「オペ前オペ」はきっちり成功で、僕は机を叩いて「よーし!」と声に出して叫びました。
そして、28日に摘出手術本番となりました。手術については「日本一のプロジェクトチームを作って、最新鋭の電気メスを使ってやるから安心しろ」と、また「東京でも大阪でもやれないが、北大でならできるんだ」と自信満々に言ってくれたらしく、さらに主治医先生は「この体験で患者の痛みが分かるいい看護婦になる。必ず仕事に復帰してもらいます」と力強く言い切ったとのことでした。
それでも僕は不安いっぱい、胸ドキドキの長い長い時間をどうしようもなく無力感いっぱいに耐えて、午後3時少し過ぎでした。「来たっ」ともう条件反射です。飛びついて受話器を取ると王子サマの弾んだ声が「手術成功!!」と。
「よかったぁ!」という声が喉元を押し上げてきて、途端に涙が吹き出しました。無意識でずっと息を詰めていたんでしょう。大きくため息をついて、またため息、ため息で、・・・深呼吸して再び「・・・よかったぁ」です。全身の力がカクーンと抜けてしばしぼんやり、早速うれし涙付きのビールで「かんぱーい」となったのはもちろんですが、でもまだどうしてもうまく了解できない気持ちでした。心の中の弟たちに何度も何度も報告しました。(リンドウ病だよ!脊髄にメスを入れたんだ。冷凍マグロの時代が来る前にこんな奇跡が起きちゃったんだぜ!!)
(次号へ続く)
