薄明かりの淵から(10) 大澤恒保
[小刻みの希望]
吉本隆明さんが「幸福論」やそのほかの著書で、「幸・不幸」を細かく刻むということを言っています。もう生きていたってロクなことはない。体も動かなくなってきて、後はもう死ぬことしか残ってないじゃないか、って考え始めたらなかなかその軌道から逃れられない。憂鬱でどうにもならなくなる。限界だな、ってところへ何度も滑り落ちる。生きてあるのが一気にイヤになる。神経が毛羽立って、たぶん無意識の底まで揺さぶられ、その揺れが頻発地震のようにやってくる。あと1揺れで何もかも崩壊する。本気でそう思う。これはそういうところからの実感的、体験的な脱出法です。
この軌道に入り込んでしまうのを彼は自分の例も含めて「老人性うつ病」の特徴だと言ってますが、これは「老人」に限らず僕ら病人も、あるいはまったく健全な身体をもっている人たちでも陥りやすいアブナイ心の揺れ方だと思います。さらに現代では、若いときほどそういう悲観的な場に入り込みやすいようにも感じられます。「死」は遠い老いた先にあるのではなく、いつでも隣り合わせの感が逼迫してきているんだと思っています。もちろん僕もそうでしたし、今もそうです。
そこで「希望を刻む」んです。「幸・不幸」を決して長いスパンで考えないということです。今日のこの一瞬嬉しいことがあれば、それを幸福だと意識する。今日のメシはうまかったでも、会いたかったあいつに会えたでも何でもいいんです。ちょっとイヤなことがあったらそれは不幸だ。上司に強烈なイヤミを言われた。友人から手痛い目にあった。何でもありです。でも、その幸も不幸もどっちみち長続きするもんじゃない。どちらも永遠に続くことなんかじゃない。「小刻み・・・小刻み・・・」
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言われてみればこれは生きてくる過程でだれでもが無意識にやってきていることだと思うんですが、こういうあり方に彼はコトバを与えてくれたわけです。「そうなんだよ!」って膝を叩きたくなる思いでした。コトバは不思議な魔力を持ってます。いわゆる「刹那主義」ってのとはイメージがまるでちがいます。昔からの言い方では「明日は明日の風が吹く」なんてのもありますよね。でも、伝わってくるイメージがまるで違い、カッコつけたノーテンキさがどうにも薄っぺらです。
そしてこのことがコトバ以前の状態で前提になっているのが病院のデイルームというところでの出会いと付き合いと別れです。患者同士、付き添いの人たち・・・みんなこういう場を生きているのが肌で感じられます。
もちろん、外の世界と同じくさまざまな価値観が混交していますから、不信や怨念や猜疑心のかたまりになっているような人もいます。そういう人はすでにアブナイ「死の軌道」に入り込んじゃっていて、自己を閉ざしたり、逆にやたらと愚痴を吐き出したりします。自分がどんなにきついか、自分だからかろうじて耐えてきた。耐えている。そこをやたらと強調します。また他の患者の話に一応相づちなんぞをうちながら、それはいずれこうなっていく、どうにも救いのないモノだというようなことを(たぶん自分では誠実な善意のつもりで)真顔で忠告したりする。こうなると当然周りからは疎まれ敬遠されます。
でも、こういう人とは対照的にものすごく美しい「母性」を発揮している人たちも、とてもたくさんいるんです。前にちょっとだけ触れた悪性腫瘍をもってしまった小学生の女の子。また、このときは中学生だった、やはり悪性の(つまりがん細胞のように転移し拡散してしまう)脳腫瘍をもってしまった男の子。その母親や肉親たちはその代表的な人たちで、僕はデイルームで彼女たちと話すのが大好きでした。彼女たちの心の底には広大な諦念の海があって、その少し上ではたぶん逆波荒れ狂っていて、でも表面はいつも笑顔です。それも取り繕った笑顔なんかじゃありません。そのときを真っ直ぐに楽しんでいるんです。たぶんそうでないと毎日をやり過ごせないんだと思います。
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このお母さんたちはホント「美しい母性」を体現していました。「美しい」とあえて言うのは彼女たちがみごとに自分のしんどさを抑えきっているからであり、自分を捨てていると言っていいくらいだからです。自分はいい、今のこの子の笑顔をどこまで続けさせてやれるかだけだ。そういういうところにいつでも最大の心を傾けているのが僕にも痛いほどよく分かりました。
可愛くて、哀しくてならないのに「我が子」が長くは生きられないというようなことを承知しきっているんです。苦しくて切なくて無力感いっぱいで、でもそんなことは普段おくびにも出しません。「悪性腫瘍」だと本人に「告知」してあったかどうかは知りませんが、また「告知」してあったにしてもそれがどんなことなのかは2人とも充分に理解できる歳ではなかったんですから、悪化すれば再入院して再手術でまた前のようになれると信じ切って、つらい治療に立ち向かっていました。抗ガン剤と放射線で髪の毛は伸びるヒマもないほどです。
彼らとの出会いは99年の入院時、脳外科のデイルーム脇にある喫煙室。我らの「たまり場」でした。そこで僕はこの子たちとその母親たち、そしてほかのさまざまな病気を抱えた人たちと他愛ない話をしては笑い合っていたものです。
妻には「我が家の大黒柱」として職場復帰をしてもらっていたので僕は時折やってくる友人たちや女神サンと王子サマを待つ以外はたいていひとりでここに車椅子ころがして出向いてはタバコをふかしていました。僕の心身の「居場所」だったんですね。看護婦さんから「今日は何本目?」とかときどき訊かれてましたが、たいてい「今2本目!」って答えていました。「今日」じゃなく「今」です。まぁ、すべてお見通しで、返ってくるのは「もう〜!」という感じの苦笑いだけでしたけどね。
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ここで僕はグァムから来ていたローズという女性とも知り合いました。前もって言い訳して置いたように僕の英語は日常会話的にはひどいモンで・・・でも彼女もたどたどしい英語をしゃべって、だから逆に何とか意志の疎通ができました。彼女にとっても英語は外国語なんです。旦那さんが僕と同じような症状で、足は動かず、両手もほとんどマヒしてまして、個室から出ることもできませんでしたが、2人での会話は「チャモロー語」だと言ってました。彼女もみごとなヘビースモーカーで、喫煙室に行くとたいてい彼女がスパスパやってました。僕が先着のこともいっぱいありましたけど
ね。
毎朝大型の灰皿がいつも満杯になっていて、定期的に掃除に来てくれるオバサンを待たず、彼女はいつも自分でそれをきれいに洗ってからタバコを吸ってました。タバコは好きだけど灰皿が汚れてるのはイヤなんだと。僕にもこの心理よく分かります。
手持ちぶさたの日が多く[アイム ボアリング」が口癖のようで、また「アイ ウォントゥ ワーク」ともよく言ってました。グァムでは朝から晩までたいへんよく体を動かしていたと。グァム生粋の現地人だろうなと想わせる顔つきや体型をしていて、哀愁帯びたきれいな目をした人です。そしてその旦那さんは40歳代のみごとな巨漢でした。彼の体重は120キロをオーバーしていて、オペ前の入浴時には看護婦さんたちが7,8人がかりで、さらに若い力持ちのドクターの応援も受けて・・・ということだったようです。個室に遊びに行くと彼はさらに英語が苦手で、でも僕よりはマシなしゃべりをしたもんです。2人だけで札幌に来ていたんですが、グァムの大家族の話もよくしてくれました。家には大きな庭があり、ベッドは大きいのが3つもあるし、すぐそばの川ではみごとな魚が釣れると「自慢」して、僕にぜひ遊びに来いと言います。「無理だね」って言うと旦那さん、ルイスいう名前ですが「ファイト、ファイト!」と笑うんです。とても無邪気な笑顔です。彼の脊髄腫瘍はうまくとれて、僕がリハビリ科、泌尿器科と移り住む内に手足の動きがずいぶんと回復してまもなく退院になりました。
その退院の直前、僕の誕生日が6月4日で、その日にあのふたりのお母さんが中心になってデイルームで「誕生祝い」をやってくれました。ルイスとローズの退院の前祝いを兼ねてやろう、ということで照れくさいことでしたがうれしく受けました。お菓子類とジュース類でワイワイ、ビンゴゲームなどやって実に愉しいひとときを過ごしました。「ベーチェット病」で入院していた若くてカッコイイ男(僕は彼に勝手にシモさんと名付けていました)がカメラでパチパチやって、そのときのみんなのスナップ写真が今も僕の手元にあります。ローズの笑顔が輝いています。そして僕はこのときプレゼン
トとしてもらったTシャツを今でも愛用しています。
ちなみに、なぜ彼がシモさんなのかというとシモネタでローズを笑わせてばかりいたからです。昼食だったと思いますが、病院食にバナナが出ました。お分かりでしょう?彼は大きなバナナをローズにあげると言って、そこで「ディス イズ マイ サイズ!」と誇らしげに差し出したんです。もちろん彼も僕同様に英会話は下手くそです。で。大笑いのローズは「ノー!ノー!ユアズ ウィンナ・ソーセージ」と応じていました。
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こんなパーティは病院では初めてのケースだったようで、記念集合写真には若くて人気のドクターも引っぱり出され、治療中で髪の毛のない子どもたちに、包帯、マスクの患者たち・・・そして僕はど真ん中に車椅子でエラソウに満足そうに写っていて、上半身は病院指定のパジャマではなくひいきの「阪神タイガース」のユニフォームで、手にプラスティック・バットを持っています。応援団の記念撮影みたいですが、阪神ファンはたぶん僕だけで、北海道の人たちはほとんどあのGファン。もちろんシモさんもそうで、何度「悔い改めよ!」と忠告してもダメです。あきれたモンですが、G戦中心のテレビ中継のせいで幼いころからきっと変なモノが刷り込まれているんですね。
僕が毎日のようにタイガース・ユニフォームを着て車椅子で院内をうろうろしてると「勇気あるね〜!」と体力ありそうな患者に半分威嚇されたりしましたが、僕はいつもラジオ放送にかじりついていて、勝利の日の翌朝は1階の売店で(H紙以外の)スポーツ新聞をかたっぱしいくつも買ってはニヤニヤしていました。この年、5,6月ころはまだタイガースは強く、「今日も首位や!」なんて記事が踊ってました。僕は(明日は2位や・・・)とか口の中でつぶやきながらけっこうウキウキ気分を保っていたものです。ご記憶の人もいるでしょうが、あの新庄選手が対G戦で敬遠のボール玉を打ってサヨナラなんて「事件」がありました。僕は驚喜して翌朝早くから1階に降りて自販機に新聞を入れに来るのを待ち受けていたものです。これもまた「小刻みな幸福」でした。
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実際、幸も不幸もかなり「小刻み」にやって来ますね。「禍福はあざなえる縄のごとし」とか「塞翁が馬」ですけど、そのひっくり返っては繰り返すスパンが僕らにとっては実際にとても短いんです。
快復の一途を辿っているとばかり思っていたあのルイスが翌2000年9月に亡くなってしまいました。心臓病でした。実は彼、北大に一度入院して脊髄手術に耐えられないだろうと判断され、アメリカにまたもどって心臓の手術を受けて、僕が行ったころに再入院していたんです。彼が退院し、やがて僕も自宅へ戻って、その後何度かグァムから国際電話をもらいました。彼はローズや娘の肩を借りて立ち上がり少しずつ歩くこともできるようになったようで、ローズの声も明るかったんですが、巨漢のせいもあってかやはり心臓がもたなかったようです。シモさんから電話で訃報を聞きました。彼はこの年の夏に夫婦でグァムまで遊びに行って、彼らのところに泊まってきたばかりで、その記念写真を僕に送ってくれたりしていました。写真のルイスは顔色もよくニコニコして、逞しさが全身に溢れています。その彼がシモさん帰国後にまもなく死んだ・・・と。
その後ローズから涙声で電話がかかってきました。僕は自宅の電動ベッドでまだ上半もうまく起こせない状態でこれを受け、慰めるコトバなど英語ではぜんぜん出てこなくて大変情けない思いをしました。目の前にローズがいれば、黙ってうなづき、震えているだろう彼女の手を取っていればいいのに、電話ではただ沈黙するしかなくて、ただただ悲しく、ひどく苦痛でした。また、あのとき小学生だった女の子も前にも触れましたが去年2001年に入ってすぐの正月に中学生になったばかりで亡くなってしまい、彼女のお母さんから切ない、切ないメールをもらいました。
あのパーティーのとき中学生だった男の子は高1になっていて、僕が今回4月に入院したときにも何度目かの手術のために再々入院してきて、再会を喜び合ったりしました。お母さんにもお父さんにも会えました。入院時、彼の部屋に顔を出すとたいていは「元気だよー!」ってニコニコしていまして、僕に「プレゼント!」ときれいに磨かれた薄緑色の小石に「これで何度目でしょう。あなたのさりげない優しさに救われたのは」と書いた和紙が張ってあるモノをくれました。逆に僕の方から彼にあげたかったコトバです。これは今、いつでも僕の机の上に置いてあり、僕はそのコトバを毎日眺めては彼を想い出しています。うれしさの記憶で、やはり小刻みの幸福の1片です。
でも、それから1年も経たないうちに、そう、僕が退院して、やがて彼も退院しましたが、これはあの女の子と同じく、次に発症したらもう再入院しても手の施しようがないよ、という両親と姉、弟への「告知」でもあったわけです。地元に戻り、夏が過ぎ、秋深くなって、10月についに亡くなってしまいました。9月に彼からワープロで打ったらしい絵ハガキが届き、「元気だよ〜ん。もう少し良くなったら群馬に遊びに行くからね!」って書いてありました。お父さんからは別の便せんで「少しでもいい想い出を創ってやりたくて・・・」という文面。僕はどうしてもコトバを絞り出すことができない気分のまま涙こらえて何か書いたはずですが、今はもう内容を忘れました。2人に別々のことを書いたはずです。このときミスター・ダンディは彼らが住む旭川まで札幌から何度も車を走らせ、彼を励ましていましたが、電話ではその無力感をずっしりと伝えてきました。
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これらはとても小さいとは言えない不幸な出来事でしたが、やはり細かく刻んで歳月、歳月です。まだわずかな月日しか経っていないのに、日々の不自由な「自由生活時間」がいろんなことの忘却を強いるのでしょうか。心の中では別の時間帯が流れているようで、まだ彼らが遠くで「元気だよー!」って愉しそうに笑っているような気がします。長いこと会ってない、そしてこれからも会う可能性が少ない友人たちと何も変わらないよな、と思えてきました。今現実にあることよりも、過去にきっちりと在り、「なかったことになっちゃった」いろんな事柄のほうが存在感強いのと同じかも知れないな〜と思っています。太宰治が「歳月は救いである」と作品『浦島さん』を締めくくっていますが、ホント、これが実感です。今も、僕はさらに「小刻みな」幸・不幸を味わい続けています。
(次号へ続く)