薄明かりの淵から(7) 大澤恒保
「にぎりめし以上?」
予定通り腎ガンの摘出手術は5月2日に、朝9時半ころ手術室に入り、夕方5時にはもう病室へもどるというふうに無事にすんだのですが、触っても押しても痛くない脇腹を我ながら好奇の目で確認して、さてその直後から脳腫瘍手術の後以上に猛烈に腹が減ってきました。手術日は当然「食抜き」ですから、翌3日にはもう耐えきれない思いで食事を要求ってことになりました。でもこれは許されず、とにかく頭の中は何よりもまず食べ物のイメージでいっぱいという状態でした。
で、ドクターに訴えるとなぜか「今日1日は氷20個までオーケー」という、要するに水分補給に一応「一瞬の固形物」での空腹抑えということなんでしょうが、こんなもの喉元過ぎないうちに消えちまうシロモノで、まずまずへんてこな答えです。わがまま患者にはこうするというマニュアルでもあるんでしょうか? ですから、氷を口に入れガリガリと5個くらいは夢中で食べたんですが、でもこんなもの全然満足感にはつながらず、僕はこれじゃどうしようもないと看護婦さんにまたダダをこね始めました。そして、たぶん泣きそうな顔をして7時ころ当直のドクターに再々度訴え、消化の良さそうなモノを考えて「カステラなら?」などと提案して、ついに苦笑い付きの「オーケー」を勝ち取りました。妻に早速構外のコンビニで買ってきてもらって大きな1切れを食べたんですが、いやー、これは実にうまかったですね。うまいというよりもここまで来るともはや味覚の問題じゃないっていうか、胃袋の飢えの叫びをやっと抑え込んだとでも言いたいところです。
そして、その夜のうちに、連休入りでお休みだったはずのドクター・ビッグジャックが病室に来てくれて、あれこれ診察らしきことをしながら早速明日の朝から普通食に、と手配してくれました。今あらためて人間やはり「生きる」ってことにはぐっと湧き出る欲求というのが大前提だね、とか思っています。
人を生かしちゃう欲求なんては例えば性欲でも物欲でも何でもいいんだとも思いますが、でも、そもそも今回のジタバタの発端が例の大ヤケドの「チン体験」です。そしてこれの恥ずかしくも惨めな治療は群馬の病院から、自宅でのホスピス的看護でも、北大に来て脳外科、泌尿器科と続いても、まだまだ治ったとはまるで言えないままでしたから、性欲なんてものは遙か彼方へ跳び去ってしまっていてまるで現れようもないわけです。
また物欲なんぞは昔々に競輪競馬の日々と一緒にまとめて捨て去ったはずですし、名誉欲なども初めから持ちようもない生き方をしてきた僕ですから、まぁ、食欲、酒欲、タバコ欲くらいしかありえないんですね。実際、このヤケド痕は脳外科、泌尿器科と各病室まで往診に来てくれた皮膚科のドクターからは、「ここまでひどいと、ホントなら皮膚移植なんだがなあ・・・」とあきれられていたくらいでした。ですから消毒したり何やらクリーム状のものを塗ったりの、この治療だけは2つの手術を終えて、リハビリ中心になって退院ぎりぎりまでってことになり、結局腫瘍よりもガンよりもこれにかかった時間が一番長かったということになります。
で、あと残るのはこれらとは別次元の精神的な欲求なんでしょうが、これをミスター・ダンディたちが満たしてくれたんだと思っています。やはり例の「にぎりめし置き去り」の好意ですね。 胃袋が絶叫していたちょうどこの3日には、若き旧友というか、かつて僕が予備校で講師なんぞをやっていたころに生徒だった男で、今は自分でもけっこうボロな身体を抱えながらも東京の奥のほうで一応無事に会社員などやってるヤツですが、連休を利用してわざわざ飛行機でやって来ました。僕はまだベッドから動けずに寝たままでぽつぽつ何やら話したはずですが、もともと口数の少ない彼は僕のまぁ、「ひでー状態」を見てますます無口になったようで、ただベッド脇でオロオロ(?)ってな感じでした。彼は翌4日にもやはり口数少なく立ち寄り、5日の朝帰京する前にも顔を出してくれました。
今回の北大入院は少数の人たちを除いて友人や親戚などにも僕からはほとんど知らせてなかったので、これも驚きでした。たぶん群馬に帰ったばかりの息子から電話ででも聞きつけたのでしょう。確か彼は2年前の脊髄手術のときにも駆けつけてくれています。これはまた後で触れるつもりのことにも関連しますのでここで前もって白状しておきますが、予備校講師としての僕は英語を担当してはいても、要するに受験英語しかこなせない「読み書き英語」専門で、いざ日常の場でネイティブの人たちと会話ってことになるとオタオタとまったくの片言しかしゃべれない情けないヤツでした。ですから彼などは僕の英語の授業なんてまるっきり覚えていないにちがいなく、英語とは全然関係ないあれこれのことでの接触がお互いの心に「友情」みたいなものを生み出したんだと思います。外見的には僕とはまるで違うタイプなんですが、どこか薄い膜で隔てただけのような共鳴する部分があるのがわかります。
この間に「にぎりめしの好意」をくれたカッコイイ連中は他にもかなりたくさんいますが、その強烈な「後方支援組」はまたの機会に(たぶん)触れるとして、現地で直接的に関わってくれたメンバー数名だけをまずは紹介しておきます。その一人がこの旧き若き友人であり、前回から登場していただいたミスター・ダンディなのは言うまでもないことです。
また、別の「にぎりめし」をくれたひとりは大学時代の同期生で、今は室蘭で学習塾を開いている男です。彼も前回、今回と何度もわざわざ車で、または電車で数時間かけて病院へ来てくれました。この男、同期生とは言っても学生時代には考え方や行動のどこを見ても僕よりずっと先を走ってるヤツという感じで、まあ、がっしりとした兄貴分的な、「我卑小にしてとうてい及び難し」ってな存在だったのですが、そもそも僕が受験界とやらに関わり、オンボロ私塾なんぞ自営し始め、予備校講師をやったりしたのも彼のあり方が最大の根拠でした。まあ、僕が彼のマネをしたってところです。大学卒業後は彼は北海道で、僕は群馬でと「遠距離交友」でしたが、この間30年ほど、結婚したり離婚したり「自殺志願者」になったりの僕の危なっかしい「人生の岐路」というときには、いつでも彼がすぐそこに物や心を置いていてくれていたということが今とてもよく分かります。
またもう一人、かつて十数年前に群馬で「高崎映画祭」なるものを僕ら数名がかなりデッチ上げ的にスタートさせた際に、高校3年生で入試直前という一般的には焦りなど出てとても大事な時期に悠然スタッフになった男のことに触れます。当時砂漠が好きだったのか何かよくは知りませんが、なぜか志望校を鳥取大学1本だけに絞って、その試験直前にも事務所に日参してコツコツとポスター作りなんぞを手伝っていました。僕は予備校勤めでこの時期焦りまくる受験生たちをずっと見てきたせいもあって、周りで案ずる僕らに自信満々、「大丈夫ですよ」とかボソっと言っていたのが特別印象的でした。
その後は大学時代に砂丘に飽きたか、たぶん他の何かに魅了されてなんでしょう、北海道で暮らすということが目標になり、結局はその意のままに道庁に勤めて今日に至っています。
彼は聞き取りにくいような早口でボソボソしゃべり続けるタイプ(失礼かな?)なんですが、こと決断力ってことになるとやはり「すげーな!」と思わざるを得ないところがあって、その決断の仕方が僕はとても気に入っています。当時の鳥取大学がどの程度の「難易校」だったのかは僕の親しい生徒たちの中にはそこを受験したメンバーがいなかったので分かりませんが、大学のいわゆる偏差値ランキングとかとはまったく関係なく(彼がその気になれば相当な「難関大学」でも合格していたであろうことは疑いなしと僕は見てますが)「好み」の所を選び、また生涯の職場を得る場所もまたいろんな意味での「好み」の所として選ぶ。どうやらデスクワークより現場好きなようで、道庁でもかつては「鳥獣保護課」とかいうところにいて北海道の各地で熊のいる山野をのしのしという感じでやっていましたが、今は北海道ならではの「エゾシカなんとか課」に属しています。
その彼が今回もやはり頻繁に顔を出してくれました。そして僕の味の「好み」の変化を察知してはいろんな北海道名産の「やや甘いもの」などを手みやげにやって来て、ぼそぼそしゃべりながら僕の点滴や尿バッグ付きのデブ姿をデジカメで撮って行っては、「大澤情報」として群馬や東京にいる僕ら共通の友人たちにメールで送ったりしていました。
普通食になって、車椅子への移乗も息子ほど上手でないにしても妻の介助で大丈夫ってことにもなり(一度足が硬直して車椅子に絡まり、看護婦さんを呼んだりしましたが)、やがて彼女に車椅子を押してもらっては(回復順調でもやはり体力は相当落ちていたんでしょうね、自力ではすぐに疲れ切っちゃうんです)8階泌尿器科の喫煙室へ、1階のレストランへと動くことができるようになりました。
このレストランで(決して美味くない)コーヒーというのがほぼ日課になってからは、ベッドと車椅子の乗り移り練習やストレッチで手足を動かしてもらうリハビリだけやって、あとは何もなしという状態となり、やがてちょっとした外出もできるようになりました。構内の枝垂れ桜などを眺めに出たり、2年前の入院時から気に入っている近くのラーメン屋さんにダンディさんたちと待望の「みそラーメン」を食べに行ったり、かの同期生が夫婦そろって来てくれたときには彼に車椅子を押してもらって病院から少し離れた喫茶店まで出かけて美味いコーヒーにありついたり、・・・とまずまず順調な日々を過ごして5月19日に予定通り退院となりました。
そして早速にダンディさんの用意してくれたマンション9階の一室へ、となったわけですが、ここで彼は事務所の力持ちさんを連れて朝10時には病院に来てくれました。そして、僕はその力持ちさんに「だっこ」してもらって車の助手席に座り、マンションまでの街中を走る間、何しろストレッチャーではないので、やや不安定な身体ながらもやはりもう大変な開放感を味わっていました。
部屋は、家具一式そっくりそろっていて、例の電動ベッドもあり、とにかく立派なもんです。ダンディさんはここでもやはり準備万端で、まずは早速ビールで「カンパーイ!」となりました。これは例の氷とは雲泥の差、喉元過ぎて胃に達するまで味覚、触覚(?)など諸感覚がキューッと追いかけるふうで、タバコも吸い放題、少しおおげさでしょうが、まさにこれぞ生きてる実感そのものといった感じでした。
その後、その電動ベッドで一休みして、夕方6時には退院祝いと称して彼が予約しておいてくれた「サッポロ・ビール園」行きとなりました。事務の美人さんと彼の兄さん夫妻も加わって、また力持ちさんに「だっこ」してもらい、入院時から日ごと夢見る思いでいた「ビールプラスジンギスカン」(!)です。
このときの記念写真では、術後も続いたステロイド系の薬の影響もあってか、まん丸に太った僕が2杯目か3杯目かの大ジョッキを真っ赤な顔でニコニコと掲げています。この日のためにと、また群馬の自宅へ帰ってから痛飲するためにと、僕は尿対策でドクターの許可を得て恥ずかしき留置カテーテル(ご存じですか?カテーテルに関してはまた後で触れます)を外さないままでいたんです。ですからそっちの心配がないのでもうガンガン飲み、ジンギスカンもばっちり食べ、どれほどの時間そこにいたのかはもう分かりませんが、すっかり満腹、満足して、帰ってベッドでぐっすりということになりました。
そして翌20日、昼はマンション近く、行列のできているラーメン屋さんでまた大好きな「みそラーメン」です。これもまた病院近くのあの店を凌ぐほどの味で、しっかりとたっぷりと堪能しました。 で、夕方6時、待望本命の「よさこいソーラン」となりました。
これ、まさにすごい(!!)の一言。そこは普通見学者は外からガラス越しに見るようにできている場所でしたが、スタジオ内に車椅子を入れてもらって、中央正面にデンと座り、会場の広さにあわせて選りすぐったらしい踊り手30名ほどのみごとな舞い踊りを、まこと瞬きもせずって状態で見入りました。一人ひとりがみんな笑顔、笑顔、笑顔・・・を主賓(?)たる僕の方に向けていて、「や〜れん、ソーラン・・・」とアップテンポにした民謡調の唄声に、確か津軽三味線の音なども入り、そのリズムに乗ったメンバーみんなはそれぞれ個性的な出で立ちで、その手足の動きはみごとな振り付けも相まって、その手指の先から白足袋の足先までピシッと決まり、軽快に、豪快に、流麗に、・・・とそれはもうどんな言葉を使っても形容のしようがないほどでした。
2曲目か3曲目にははっぴ姿のミスター・ダンディも見よう見まねで踊り出し、マイク片手に絶妙に「そりゃ、そりゃ、そりゃ、そりゃー!」と合いの手を入れ始めました。鳴子を両手に、また時に旗を振りながら舞い踊る彼の息子、2人の娘、ママさんと僕の目が合う、そのたびに、身体の奥が震えるように激しく反応して、涙が吹き出そうになります。とっさに僕はその衝動を抑えようとして他の人たちの踊りに目をそらせました。するとまたその人たちの笑顔がぐぐっと来るんです。何しろ至近距離で、鳴子の音もかけ声もまっすぐ直接的に入ってきて、いわば心が次々に胴上げされるという感じなんですね。
彼らのチーム名は「石狩流星海」といいます。一文字変えて「流星会」となればどこかの怪しげな組の名前みたいですが「海」です。ほんと、次々にざーっと突っ走る豪華な流れ星の海です。いや、まさに大海に乱れ降る大小さまざまな流れ星とでも言うべきかもしれません。 かつて元気だったころに僕は歌や舞踏や芝居をかなりたくさん見ましたが、そんなことももうなくなって、これは実に久方ぶりのナマの迫力ってことになります。でも、それがただ久しぶりで見事というのとはまったくちがっていたのは、この舞台自体がこんな僕のためのものであり、この僕の今後を勇気づけ励ますためにと企画されたものであって、まさに目の前で、・・・ということが大波、小波、次々に押し寄せてくる感動の源泉になっていたのだと思います。
ミスター・ダンディのこれはもう「にぎりめしの好意」を跳び超えて、とんでもなくぜいたくな大ご馳走だったことになります。そして、実際の食事でも、演舞終了後にスタジオ前の小粋な小料理屋さんで北海道ならではの新鮮なカニやさまざまな魚貝類のご馳走が待っていてくれました。彼にはもう完全脱帽の感謝、感謝です。
(次号に続く)