薄明かりの淵から(6) 大澤恒保
「ミスター・ダンディ」
善意という言葉を封印した今、前回触れたとおりやはり友情というものについてもう少し書き足したいと思います。
この歳になって(信じがたいことにこの6月で52歳にまでなりました)安手の青春ドラマのようなことを言うのはちょっと気恥ずかしいんですが、やっぱり友情の輪こそが人を生きさせるなんて本気で思っています。家族の懸命な献身ぶりもこの際友情の枠内に入れて考えます。そうすれば宗教者がよく口にする「生かされている」という言い方も、それが神仏によってではなく友情によって、ということになり、曲がったヘソ4つの僕にも了解しやすくなるんです。
2年前の入院時にも群馬や東京の友人たちが親身な手紙や電話をくれ、さらにカンパを募るというようなことまでやってくれて、中には一面識もない人たちからの好意まであって、結局相当多額な支援をしてもらいました。僕
は実際そのおかげで不自由かつ無収入の惨めさからフワっと浮き上がることができていたんだということを、今になってあらためて痛感しています。そのカンパ資金で自分専用のトイレを作ったり、車椅子が動きやすいように家
の中を改造したり、・・・と数え上げればきりがなく、何もかもという感じになります。しかも僕自身は不義理そのもので、「お見舞い」に対する「お返し」というような社会的に当たり前なお付き合いのかけらもなしにその後の日々をこの羽根布団の上でノーテンキに過ごしてきました。
それなのに、今年もまた入院前に多額のカンパ資金が友人たちから届けられまして、何とも感謝のしようもないうれしさを再び味わいました。彼らはみんな見返りが何もないことを承知で巨大な「にぎりめしの好意」を置き去りにしてくれたことになり、僕はそれをガツガツとむさぼり食って生き延びたわけです。
そして今回いざ北大に行ってからはまたこの友情のありがたさが身にしみることになりました。うれしい友情をくれた人を一人ずつ紹介したいところですが、まずは特大の「にぎりめし」をくれた実にカッコイイ男のことに触れましょう。彼は札幌市内に建築設計事務所を持っている人で、「こんなことがあっていいのか?」って思うほどちょっと度はずれた親切さを見せてくれたんです。
彼とは2年前の北大病院入院時に脳外科で知り合いました。確か前頭葉の下に大きく広がって鼻の奥の方にまで届く勢いだった腫瘍を持っていて、僕が脳外科から泌尿器科へ転科したころにその摘出手術を受けた人です。両目とも失明するか、最悪の場合は植物人間化する危険もあるということで、手術前には家族のみんなが集まっていてとても深刻な状態だったのですが、ご本人はまるで陽気で、野球場などの売り子さんみたいに「焼きソバ弁当いかがっすかあー!」と大声を出しながら喫煙場所にやってきたものです。彼もまたけっこうなヘビースモーカーです。
その後は「スープ付き焼きソバ弁当はいかがっすかあー!!」とさらにボリュームアップしたりして、とにかくエネルギーいっぱいのハンサム・コメディアンという感じでした。そのとき彼は腫瘍の影響でどうやらすっかり躁状態になっていたらしく、後でそのことで彼をからかってもそんなことはケロリと忘れていました。そうなんです。彼の手術はみごとに大成功だったのです。鼻の奥の方には腫瘍の除り残しもあり、左目にやや見えにくさがあるらしいんですが、見た目にはほぼ全快と言っていいくらいです。
そのときは彼の手術からほどなくして、僕は病院を逃げ出して群馬へ帰って来てしまったのですが、彼は自分の体調が良くなってからも僕のことをずっと心にかけてくれていて、どれほど経ってからのことだったか、半年後くらいだったでしょうか、突然に群馬まで遊びに来てくれたんです。電話で「今、東京!」とまったくの不意打ちで、本当にびっくりしました。てっきり杖でもついてヨレヨレと来るものかと思っていたら、数時間後に高崎駅からケータイで道順を確認しながらタクシーでやって来て、なんともさっそうとしたスーツ姿で現れたんです。僕は窓辺に車椅子で座っていたのですが、その前をにこにこしながら歩いてきて、ずんずんという感じで玄関を入ってきました。コメディアン変じてミスター・ダンディです。
入院で閉じていた会社も再興してきわめて順調とかで、その後もわざわざ札幌から何度か我が家へ来てくれていたんですが、いつもほとんど不意打ちの訪問でした。で、今年の4月2日、僕がホスピス最終段階ということでそれまでいた病院を退院して来たその日に、やはり何の前触れもなく、3人の子どもたちを連れてまた突然にやって来ました。隣町あたりからちょっと見舞いに立ち寄っただけ、という感じでしたが、もしかしたら妻か息子から僕がいよいよ最期だと伝わっていて励ましに来てくれたのかも知れません。後で妻に確認したら電話連絡があったのは僕がまだ入院中のことで、「そのうち行くよー」という話だったらしく、それがちょうど退院の日になったのは
まったくの偶然だということです。
でも、このときには僕はまだ北大病院へ行くかどうかなどをまともに考えられる状態ではありませんでしたから、「この人たちと会うのはこれが最後かな?」と心の奥でボソッと考えた程度で、悲しい気分やうれし涙につながるということもありませんでした。死を前提に退院してきた日ですからどんなことでももうそのまま受け止めるだけだったのだと思います。
視界もおかしくなっていてほとんどボケた状態でいたのですが、車椅子でボンヤリしている僕の目の前で、その子どもたちが「よさこいソーラン」でやる踊りを披露してくれました。これはもう見事なもので、彼らは高校生の女の子、中学生の男の子、そして小学生の女の子です。そうです、子どもと言っても彼らは今北海道で毎年ものすごい観客を集めているこの大イベントの主役中の主役なんです。彼らが属しているのは石狩市のチームで、彼らの
すてきなママさんがその中心的な存在になっていて、1年間ずっと練習を続けては毎年6月の本番に備えています。
また、そのときにはダンディさん自身もギターと歌を披露してくれたらしいんですが、3人の踊りに圧倒されたせいか、そちらはまるで記憶に残っていません。4月の桜の季節で、当然そんなものはあるはずもないのですが、やはり幻覚なんでしょうね、彼の息子が宙返りをしてみせる場面では狭い部屋にダルマ・ストーブのようなものが焚かれていて、彼がそこに体当たりしてしまうような気がして「ウワー!」という不安に襲われたのを覚えています。
ところで、今回のジタバタについて書き始めた最初の部分で僕は日付を間違えて書いてしまいました。退院してからもまだ頭が変だったのでしょうか?あれを読んですぐに「おかしいぞ!」と思われた方もいらっしゃると思いますのでここで訂正させていただきます。4月10日に手術と書いてしまったのですが入院が10日で、12日に予定されていたのを1日早めて翌11日に手術というのが正しい日付です。
さて僕はその10日に入院して、ここからはこのミスター・ダンディが大活躍してくれました。妻は長期戦になるのを覚悟して職場に介護休暇を願い出て付き添いに来ていて、また、北大は「完全看護」をうたっている病院ですから手術日に一人が一泊することが許されるのみで、従ってこれから息子と2人でずっとホテル住まいではどうにもならぬと、12日には札幌市内でアパートを探して来ました。実際、遠方からの長期入院者の家族は多くがそうしています。
ところが、ここでダンディさんは自分の事務所のあるマンションの9階に空き部屋を見つけ、礼金や敷金などなしにこれを借りて、しかもそこですぐに生活できるようにと事務所の人たちの積極的な援助も得て、テレビ、冷蔵庫、レンジなどの電気製品や食器類などを調達してきてくれたんです。おかげで妻と息子は契約したばかりのアパートを引き払ってそこで快適な毎日を過ごせるということになりました。
そして、彼は仕事の合間をみてはほとんど毎日病院に顔を見せてくれて、妻と息子は毎朝まずは2階のダンディ事務所でコーヒーをいただいてから病院へ、ということだったようで、言ってみればこの間の僕らは家族ぐるみでずーっと彼らの手厚いケアを受けていたことになります。
泌尿器科へ転科してすぐの26日に、さすがにこれ以上息子をこちらに縛り付けておくわけにもいかないということになって、27日に群馬へ帰すことにしたのですが、ここでダンディさんは、今は使っていない電動ベッドが家にあるという事務所のスタッフからそれを借りてマンションへ運び込んでくれました。息子の手があるうちに、ということだったと思うんですが、バラバラにしてあった各部品を組み立てるのはかなり大変だったらしく、作業を手伝った息子がその奮闘ぶりを後で誇らしげに語っていました。言うまでもなくこれは、僕が退院後にそこで何日か過ごせるようにとの気配りですが、彼はこのときにさらに、僕をあの「よさこいソーラン」本番に招待しようと計画していました。これは土佐の「よさこい祭り」の北海道版で、ご存じの方も多いと思いますが当日の札幌はものすごい人出で、通りに沿った桟敷席をとるのもむずかしいんです。
僕はかつてまだ少しは歩けたころに土佐の高知で「ご本家よさこい」の本番を見たことがありますが、2年前にテレビで見た限りでは「よさこいソーラン」はそれと同じくらいか、あるいはもっと大きな祭りのように思います。なにしろ全国から400チーム以上が参加する大イベントで、僕は2年前には北大病院のデイルームでこれを放映する地元テレビをずっと見ていました。その日時はもう曖昧ですが、でも確かダンディさんの手術の前後どちらかというころだったと思います。そこで何と彼らのチームは3位に入賞していて、そしてまた今年も優勝候補の一角に挙げられているとのことでした。去年は新聞報道で知ったのですが、札幌大通り公園に何か爆弾のようなものを仕掛けたとかいう心ないデマ電話のために残念ながら大会そのものが中止になってしまったようです。この大会に向けて1年を通してきびしい練習を繰り返している彼ら参加チームの面々はさぞや悔しい思いをしたことだろうと、僕は群馬で一人憤慨していました。
今年はそういうばかげたこともなく、どうやら予定通りに本番を迎えられるということになり、そして、ダンディさんは何とその当日に僕が車椅子のままでチームの先頭を行く山車に乗れるようにと手配してくれたんです。光栄きわまりないといったところですが、でもこれは僕の方から丁重に辞退しました。僕の退院が5月19日と予想以上に早めに決まり、このイベントは確か6月の10日あたりの予定で、それまでずっと札幌にいるというのはむずかしいと考えたからですが、いくら体調が良くなってきたとはいっても長時間車椅子で山車に乗るのはまだまだ不可能だと判断するしかなかったからでもあります。マンションには電動ベッドまで用意してもらったのですが、車椅子で入れる身障者用のトイレとなるとこれはどうにもなりません。でもそれよりもまず僕自身が、設備の整った病院にいてさえまだ一人ではベッドにもトイレにも乗り移れない状態だったわけで、本当に残念だったんですがあきらめました。
するとダンディさんはすぐに代案を考え出し、僕の退院に合わせて本番出場のメンバーたちの踊りを見せると言い出しました。彼の兄さんが関係しているというタレント養成校みたいなスタジオを借りるというのです。当然ながらそこならば大勢で踊っても歌っても大丈夫なわけで、退院の翌日20日に、ということになりました。ここでもまた彼のその臨機応変な対応ぶりと行動力のすごさにはまったく舌を巻く思いでした。
(次号へ続く)