薄明かりの淵から(5)    大澤恒保         

 前号までで今回の僕のジタバタ体験はだいたいご報告できたものと思っていますが、  でも敢えて触れずにきたところがあるのは確かです。それは、ずっと前にこの「薄明かりの淵から」に書いた「善魔」の世界、つまり「悪意ではなくいわゆる善意こそがヒトをのっぴきならないところへ追い込んでしまう」という僕の持論ですが、今回のことがあってこれを考え直さなくてはならないという気持ちになっているということです。
 もともとヘソ曲がりと言ってもいい僕ですが、今、更に曲がったヘソが3つ増えたような体になって、この善意なるものへの考え方を修正して、いや、180度ひっくり返して「 善意こそがヒトを救う」と言いたい気分に駆られているのです。今の思いでは「追いつめるのも善意、救うのも善意」と言うしかない感じで、これじゃ何かのスローガンみたいで身も蓋もありませんよね。でも、こんなことを考えるのは今回の北大入院で僕はこの「善意」というか、人の慈愛での関わりというか、何重もの羽布団のようなものにすっぽりと包まれていたからだと思うんです。
 そして結局、「善意」という言い方はもはや棚上げしてしまおうと考えつきました。そういう大げさな言葉は僕個人の内部では死語か空語ということにして、古臭いオヤジギャグみたいなもんだと封印してしまうのがいい。つまりそんな言葉も概念も僕の知る範囲ではもともと存在しなかったんだと決めて、自分では二度と使うまい。とりあえずそういうことにして少しだけ落ち着きを得ました。
 特に大きな意味での「善なること」というのは、前号で書いたように所詮僕のようなチンピラには手に負えないものですから神や仏にお任せする。つまりそういうものは僕には見えないし、さわれないし、だから存在してもしなくてもどちらでも構わないと決めつける。それでいいじゃないか、ということにします。
 そして、僕にも分かりやすそうな気のする「友情」という言葉を代わりに使おう。これもまたやはりあいまいな空語になってしまった感もする言葉ですが、この方が少しだけ意味する範囲が狭くなって、これなら自分のようなロクデナシの心中にもあっていいものになる気がするんですよね。そうすることで概念がちょっぴりだけ人間化して身近に感じられるとでもいいましょうか。言葉って変なものですね。で、今回からはこの「友情」というものについての僕の思いということになります。

  前号までに書いてきたように、僕が命をとりとめたのは確かにブラックジャック、ビッグジャック両先生を筆頭に豊富で優秀な医療スタッフの方々のおかげであるのは間違いないことなんですが、でも彼らは言ってみれば病院の表看板とも言うべき存在であって、またはそれぞれの船の船長さんとして船の行き先を決定する役割と権限を任されている人たちです。そして僕ら患者にとっては、もちろん船がどこへ向かうかはとても大事なことですが、その船の細かい部署に配備された乗務員さんたちのあり方こそがものすごく大きいのは言うまでもありません。
 でも、この言い方がどんな組織でも言われるような「裏方さんこそが大事」という教訓めいた意味にとられてしまうならこの船の比喩はふさわしくないかも知れません。病院では事務に関わる人たちならまだしも、看護婦さん、看護士さん、看護助手さん・・・という日々の現場スタッフは決して「裏方」などではないからです。患者中心のドラマで言うなら彼らこそがまさにメイン・キャラです。実際彼らは僕ら患者の一番身近なところへ入ってきてくれる存在なわけで、妻や息子にやってもらうのさえためらわれるようなシモの世話までをイヤな顔も見せずにいつでもやってくれるわけですからね。僕らはまさにこの人たちの働きに支えられて毎日の検査・治療のつらさや惨めさに耐えています。ですからそこには医師に対する信頼とはまた違ったものが生まれてきて当然です。
 もちろん、彼らがみんな度はずれて優れた人たちだと言っているわけではありません。決して白衣の天使などである必要はなく、ごくごく普通の人たちで構わないわけです。いや、むしろそうでなくては困ってしまうわけです。病院以外のどんなシステムにいたって、イヤな上司とか不快な同僚とかがいるのが当たり前ですから、中にはちょっとなあ、と首を傾げたくなる人も、勘弁してくれよ、と言いたくなるような人もいますし、逆に僕の目には実にみごとな人だなあ、と映る人たちもいます。
 ですから、もしも彼らと病院以外の場で知り合っていれば「話すのいやだね」となったり、反対に、顔を見るだけでもほっとできたりというふうにかなり個人的な感情に結びつきやすい存在になります。要するに恋人や友人に向けるような感情が芽生えてくるのだと思います。そうです。「愛情」または「友情」です。でも、彼らにはかなり意識的に「笑顔の聖職者」的なあり方をしているところが見えてしまったり、無理して感情を抑え込んで個人的な関わりが生じないようにしているのが感じられてしまうことが、ままあります。
 夜昼関係なしにあちこちの病室からひっきりなしに鳴り続けるナースコールの音を聞くだけで、彼らが真摯であればあるほどくたくたに疲れ切っているのはよく分かりますから彼らの方では患者にいちいちそんな個人的な感情を持たれたり、持ったりするヒマなどないといったところが本音でしょうが、でもそのもとにはやはり病院という場では「患者たちには平等に接すべし」という絶対的なルールがあるからだとも思います。そのルールはある特定の患者に感情的な思い入れをすれば他の患者に対して差別的になるというような、たぶんよく考えられた所から出てくる組織維持上でのやむを得ないものなんでしょうが、僕にはやはりかなり残念なことに思えるのです。
 結果的にはそのルールがあるがゆえに、相手の個人的ないろんな事情などは分からない方が便利になって、より多くの患者に接しやすくなるということなんでしょう。そして、そんなことに悩んだりしないためにと、ここで意図的に作られる距離というのが逆に跳ね返ってきて、看護婦・看護士さんたち一人ひとりのせっかくの個性をも殺すことにつながり、どこか人間対人間という大事な感覚を損なってしまう気がするからです。
 僕ら患者はどんなに強がったりしているときでもいつでも一種の「友情」を、親しい友人がそばにいてくれるというだけで生まれる安心感を欲っしているのだと思います。そこに人間としてのかすかな幸福を感じたりしていると言っても過言ではないと思うんです。「寂しい」とは口に出さなくても、「孤独だ」と漏らさなくても、きっと例外なしにそうだと言い切れるはずです。
 
 ところで、病院でのこのこととは対照的に、ずっと以前から、(そう、2年前に北大から逃げてきたとき以来なのは分かっているのですが、正確にはいつからの付き合いになっているのかもう分からないほど長いこと)僕の訪問介護に来てくれている看護士さんは今ではもう完全に僕の親しい「若い友人」になっています。彼は仕事という枠を守りながらも、したがって医療者としてやるべきことは完全にやりながらも、僕の自宅での日常生活にとけ込んでくれているんです。そして、僕の昔からの仲間でまったくのボランティアとして、つまり「友情」の一環として、その入浴介護の手伝いに来てくれている連中ともとてもいい関係を保っています。今、自力では本当に限られたことしかできなくなっている今の僕にとっては、このことが大変かけがえのないことになっています。
 病院へは自宅でやっているような日常性を持ち込むことができません。入院とは、それまでの日常を切断した特殊空間へと運び込まれることを意味します。ですが、彼のように訪問介護という形を取ってくれるところではそれがまったく逆になり、医療者たる彼の方で僕ら患者の日常へと出向いて来てくれるわけです。ですから僕ら患者は自分の生活形態をほとんど変える必要がなく、見慣れた風景の中で、馴染んだ人や物に囲まれて、それだけリラックスできるということになってきます。また、期間の限られた入院とは違って当然その付き合いも長くなります。そしてこのことは患者当人にとってはきわめて重い意味を持ってくるのです。
 つまり、そうあることで彼は良くも悪しくも僕という人間の個性ををより深く分かろうとするし、僕の方でも彼の人柄が徐々に徐々に、どんどんくっきりと分かってくるということになります。そして、その長い付き合いを通じて「友情」と呼ぶべきものが生まれてきているわけですが、それは何よりもまずお互いの個性を重視するということに負うところが大きいのです。
 そうです。これは僕という人間を特別視することになるのです。これは病院では面倒なことが起こる元凶として禁じるしかないことでしょうが、在宅介護では決してそうはなりません。特別視という意味ではだれをもみんな特別視するわけです。個人はすべて個性としてしか存在できないのですから、だれに対しても「平等に」というもっともらしい考え方自体がそもそも怪しいということになるはずです。「みんなを愛しています」というセリフが「だれも愛していません」という意味に等しいのと同じことです。特別視して、個性丸出しの付き合い方をすることこそが大事なことになるんです。彼にとって、また僕にとって、お互いが特別な存在にならなければまるでダメなんです。
 でも、そうなったからといって、彼が僕以外の患者さんたちを差別的に冷遇するなどということは起こり得ません。そこで人格とか人柄ということがきっと肝心なことになるのだと思いますが、僕には彼のそういう面が確実に信じられるのです。「どんな世界にもみごとな奴ってのはいるもんだなあ」と思っています。だから彼はほかの患者さんたちのところでは、やはり誠心誠意その人の個性を大事にした介護をするに決まっています。だからこそ「友情」が育つのです。だいたい「友情」とはそういうものでしょう?一人と親しくなれば別の一人とは疎遠になるなんてのは、小学生以前の子どもたちならまだしも、またやたらに独占欲の強いカップルならまだしも、僕ら大人の間では決してまともな友人関係とは言えないでしょう?
 そして、そうあるために彼は仕事としての建前的なことにはあまりこだわらずに、自分というものをいつでもすっきり出してきて、この僕という個性が望んでいるような関わり方をしてくれています。つまり、病院でのあの「作られた距離」を計るなどということは全然なく、いつも本音でしゃべって、そのままに振る舞っていることを実感させてくれるんです。ですから僕の方でもまるで無遠慮に言いたいことをずばずば口に出して、いつもそれですませています。これはやはり病院では考えられないようなことでしょう?
  彼は僕が北大病院へ出発した4月10日には、その前日にも、前々日にも、いえ、病院を出て自宅で最期を・・・となってからはほぼ毎日、点滴をやり、ヤケドの治療をして、血尿が出るようになっていた膀胱を洗浄したり、便秘で苦しくなればあの摘便という、するのもされるのも大変な処置をしたりしてくれたりしていたのに、また早朝からわざわざ見送りに駆けつけてもくれました。そうしたことは「仕事だから」という、どこか義務的なところからはかなり飛躍してしまっているのに、彼にとっては自然な、当然なことになっているらしいのです。
 ホスピスの現場でずっとがんばってきた彼にとっては、それはいろんな修羅場を体験してきたがゆえの自然さに決まっているのですが、僕の目に彼は、前に「善魔」で書いた『にぎりめしを置き去りにして立ち去る』ということがあっさりとできちゃう「友人」と見えています。これ、ほめすぎでしょうか?