薄明かりの淵から(4)     大澤恒保

  ビッグジャック先生の説明通り、僕の腎臓摘出は内腔鏡を使って行われ、無事に済んで、僕は麻酔でただ眠っていただけでした。目覚めた後で点滴を受けながら自分の左脇腹をおそるおそる見ると手術の穴の痕が3つありましたが、触っても押しても全然痛みを感じません。「すげーもんだな!」とまことに恐れ入りました。
  そしてその後もまるで痛みを感じることなく、したがってベッドから車椅子に抱き下ろしてもらうにも、車椅子で両腕をつっぱって腰を浮かすにも、腹筋に力を入れるのをためらうこともありませんでした。ですから、「術後の状態としては100点満点だね」などと先生におだてられたりしながらやがてすぐにリハビリ科へ通うことになり、自力でベッドと車椅子の乗り移りをやる訓練を始めることができたのです。
 実は2年前に手術を回避したいちばん大きな理由がまさにこの切開による手術痕の痛みだったわけで、術後は人によっては2年以上も痛みが続くという話を聞いたからでした。でもその痛み自体を恐怖したというよりは、そうなった場合のその後の日々がどうしても否定的にしか想像できなかったからということのほうが大きいと思っています。
 車椅子で生活している人たちでもその状態は千差万別で、多少脇腹が痛くてもなんとか日常生活は送れるというレベルももちろんあります。でも、僕の場合は両足ともまるで動かせませんので、トイレの便座やベッドと車椅子の移動も腕の力に頼るしかなく、腕の突っ張りでかろうじて跳び移るだけですから、そのたびに脇腹に痛みが走ったら自力での日常生活はまるで成り立たなくなってしまう。それが最大の考えどころでした。前回書いたように北大病院でもそのときには腹腔鏡による腎摘出手術はまだ未経験なことだったわけですから、いわばまだ実験的段階だったとも言えるわけで、一応の選択肢としてはこういう手段もありうるが・・・という程度の説明を受けただけだと記憶しています。
  結局は、僕がその痛みを怖がる臆病者だったがゆえに今回のような展開になったわけですからこの2年間の僕の逃亡生活はあながち無駄ではなかったということになりそうです。僕が昼寝をしたりビールをたらふく飲んだりしている間にも医療技術は休みなく進んでいて、おかげで痛みなく腎ガンから当面釈放されるという結果を今回得て、「人間逃げられるうちは逃げるべきだね」などと変に哲学めいたことを感じています。
 僕は今、再び以前と同じように不自由な、でも、酒もタバコも制限されずにある程度の時間を独りで過ごせる日常生活を送り始めていて、妻も長期の介護休暇を終了にしてようやく職場へ復帰することができました。高3の息
子はAO入試などというのを受けながら、高校生としては最後になるはずの演劇活動に熱中しています。
 生きていてよかったと感じるときというのは若いときのように将来の展望がさっと開けたという感じとはまるで違っています。ましてや、生きてあることの喜びの根拠となると僕にはうまく説明できそうに思えません、むしろ生き延びたことへのとまどいのほうが強いくらいだと言っても過言ではないところがあるからです。
 そして僕は今、ヘソが3つ増えたような自分の腹を時折眺めてはいろんなことを考えています。
 僕の今回のじたばたは今まで書いてきたように北大に行ってからは実に順調に、成功裡に展開したのですが、そしてそれは僕の訳の分からない悪運の強さということにはなるのかも知れませんが、しかし「神様が・・・」とい
う考え方は僕にはどうしてもできません。僕は決してそんなふうに選ばれて「神の祝福」を受けるべき存在ではありません。はっきり言って実にちゃちな「ロクデナシ」です。これは僕の過去をよく知っている旧友達や家族に訊いてもらえばすぐに実証できることですし、僕の実感から言えばこんな僕なんかよりもずっとずっと祝福され、生かされるべき人たちが本当にたくさんいるからです。
 特に子どもたちがそうです。2年前に入院していたときに一緒だった可愛らしい小学生の女の子は、悪性の脳腫瘍のために、あのブラックジャック先生の腕をもってしても助けることはできず、今年に入ってすぐ、中学一年生
で亡くなってしまいました。そしてそういう子どもたちは世界中に数限りなくいるはずです。彼らを想うときは、また18歳で死んだ僕の下の弟のことを想うときには僕はどうしても「神や仏の不在」を痛感するしかありません。もちろん大人でもそうで、その中にはいわゆる「じこちゅー」とは正反対の「聖なる存在」と呼んでしまいたいような人たちさえいます。
  もしもそんな「大いなる存在」があるならば、例えば「ノアの箱舟」に乗る生き物を選別したり制限したりすることなどはありえないし、「ヨブ記」のようにある特定の人物を選んで試練を課したりするはずもなく、これらの人々をこそまずは救うはずだと思うんです。「純真無垢」という存在が、特に現代においてどう想定されうるのかは、よく分かりませんが、しかし、そういう存在に少なくても僕よりははるかに近いと思える人たちが救われないような世の仕組みの中では「神への祈り」というのは単に虚しさの代名詞にしかならないと思ってしまいます。いい人こそが早く死んでしまうと思えてしまうときには「神に召される」というもっともらしい言い方がありますが、それじゃ「死」こそが救いであるといっているのに等しく、中世の「疾く死なばや」以外には人間目指すことなどなくなってしまうわけで、自殺や他殺を賛美することにもつながりかねず、「冗談じゃないよ!」と叩きつぶしたい気分になります。
  冗談でよく言われることですが、だいたい日本ではなにがしかのお賽銭をあげてお祈りする人たちだけでも大変な数ですし、いろんな宗教を持つ世界中のひとりひとりの「祈り」にいちいち応えていたら実際神様が何億いても足りませんよね。だからといって「これは」という善人や悪人を選んで、適当な試練などを与えて救い出すなんてのは、どこか中世以前のバカ王ならまだしも、神や仏の仕業では絶対にありえないでしょう?
 そしてまた、そういうときになると人間の想像力というやつは、「悪魔」や「悪霊」などという都合のいいモノも生み出して「全てを救う神のみわざ」を邪魔させたりもしていますが、僕は当然ながらそんなのは全て「枯れ尾花」の影でしかないと思っています。
 まあ、ここまでの考えは人間死ぬよりは生きている方がいいんだということを前提にしているわけですが、そして今回僕が死なずにすんだことが一種の「救い」であるとみなしていることになりますが、正直に言ってしまえばそのこと自体も僕には本当はよく分かっていません。まして神仏の善悪や「救い」ということになると、死後の世界なんぞまでが登場してきて僕などにはまるっきり想像もできませんし、考えるのもばかばかしいという気がしています。
 親鸞の「悪人正機説」の説くように『善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや』ということで「ロクデナシ」の僕が悪人代表として選ばれつつあるというのならまだ少しは了解しやすいのですが、それでも主観的にはどうであれ、客観的には僕などは取るに足らない小悪党でしかなく、やはりひどく理不尽です。もちろん救われるために進んで悪をなそうなどという「増悪論」などは論外です。
 親鸞については吉本隆明さんがさまざまな著書でていねいに説明してくれていますが、仏の善悪というのはもしもそういう存在があり得るとしても僕ら人間が考え得る範囲を遙かに超える大きさのものだというのが、今の僕にかろうじて了解できるぎりぎりのものです。つまりそれはこういうモノだとは決して指し示すことはできませんが、それでもそう考える以外にはないという意味で僕にはいちばん了解しやすい考え方だと思っています。 ただし
この辺りの考え方になると、まさに人間千差万別で当たり前で、今回の僕のじたばたを物心両面で支援してくれた人たちの中にも、またこの文章を読んでくれているみなさんの中にも宗派は問わず熱心な信仰者はたくさんいると思います。そして、そういう信仰とは、もっと一般化して考えれば、自称無神論者の僕のような輩にとっては信念とか良心とか考えられているものと変わらないのではないかと思っています。
 最近立花隆さんの臨死体験に関する本を読んで、この死後の世界とやらも簡単には否定しないほうがいいのかな、とも思うと同時に、でもこれは死そのもののの体験ではありえず、やはり生の領域でのことであり、ましてや僕の今回の体験なんぞは臨死体験のずっと手前の「ぼけ」の幻覚でしかなく、三途の川もお花畑もトンネルも出てきていないのだから、まだまだ「あっちの世界」には遠かったのかななどと考えています。