薄明かりの淵から(2)         

  迷った末に結局僕は北大へ行くことにしました。4月の10日の早朝、羽田までは「福祉タクシー」というのを使ってストレッチャーに寝たままで運んでもらいました。このあたりではもう時間や場所の感覚はかなりあやふやな状態になっていました。したがって後から確認したことのほうが多くなりますが、「手術を受ける」と妻に明言したのが出発直前の8日だそうで、しかもすでに夕方になってからのことでした。病院へ到着したらすぐに手術に向かう準備をしなければならないため、必要最低限の検査に限っても11日の便に乗ったのではではもう間に合わないという慌ただしさでした。
 なにしろストレッチャーのままで飛行機に乗り込むのですから、予約をとるのにも医師の承諾書が必要とかで、各飛行機会社に問い合わせたり、「福祉タクシー」の予約時間を他の人と交換してもらったりと、その大奮闘ぶりは「オレやっぱりもういいよ」と言いたくなるほど大変なものでした。高校3年生になったばかりの息子は9日の始業式に出ただけで、結局札幌へ付き添うことになり、長期の欠席になることを学校に伝えてきたようでした。
  僕は訪問看護の看護士さんに前日の夕方に、例の脳圧を下げる点滴をやってもらってあったのでさほどの頭痛もなかったのですが、やっぱり相当「ぼけ」状態だったようでタクシーの中でも、飛行機の中でもまともに覚えていることはいくつもありません。
  ただ、これからは当分ビールとはおわかれだなあ、という変な思いが一番強かったようです。羽田に着いてストレッチャーから車椅子に抱き下ろしてもらってレストランに入りすぐにスパゲッティーとビールを頼んだことははっきりと覚えています。機内では、座席3個分を倒してその上にストレッチャーを固定してあったようで、何か網棚の上に寝ているような状態でした。体は当然ベルトで抑えられていて身動きならないのに、そんなときでさえ、ビールの機内販売のアナウンスを聞いて何か特別な地ビールではと思い、妻に「買ってくれ」と頼みました。結局それは普通の市販物で買うのは止めたのですが、どうも僕のアルコール依存度はかなりなもののようです。
  千歳空港から北大病院までもやはり「福祉タクシー」でした。4月なのにあちこちに雪が残っているのが車窓から時々見えました。病院に着いて2年前の懐かしさが湧いてきたのは覚えているのですが、その後のことはほんとうにおぼろげな記憶しかありません。やはり相当危ない状態だったらしく、11日に予定されていた手術を一日切り上げて10日にやるということになりました。同じ脳外科でも脳と脊髄の手術を担当する先生方はそれぞれのスペシャリストとして別のグループを組んでいるらしく、2年前にお世話になったときとは違う先生が責任者でした。その先生は実際とんでもなく危険な手術を、しかも北大病院という場を離れて網走や紋別まで出張したりして、次々に成功させている人で、僕は今ひそかに彼を「ブラックジャック」と呼んでいいます。
 そのブラックジャック先生と手術に向けて話をしたのですが、このあたりで僕の意識は相当ひどいことになっていました。幻覚が始まっていたんでしょうね。奇妙なことなんですが彼と対面して話しているその場所が薄暗いどこか見知らぬ浜辺なんです。そして、周りにはなんとあちこちに「かがり火」が焚かれているのです。他の先生方や看護婦さんたちと妻も息子もその場所にいたはずなのですが、まるで記憶にありません。彼らはみんなその「かがり火」になっていたのだと思います。そしてブラックジャック先生はまだ40代の端正な顔立ちの若い人なのですが、僕にはその海辺の村の長のように感じられていました。
 一応なんとか受け答えはしていたのですが、このとき僕の心の半分くらいは一種の原始時代にワープしていたのだと思います。視覚や聴覚が脳細胞にまで届く経路が微妙に混線して、あるいは脳自体が外界の刺激とは関係ない動き方をして、やはり「ぼけ」に近い状態を創り出していたのだろうと推定しています。でもその幻覚がなぜ原始時代の浜辺だったのかは分かりません。しかもこの幻想のイメージは手術後まで続くのです。 
 翌日のお昼ころに手術室に入り、出てきたのは夜の10時ころだったようです。「観察室」というナースステイションに一番近い無菌室に入ったのですが、何かニコニコと先生と話しながら出てきたのだそうです。群馬ではもう死を待っているしかなかった体がこうして再び動くようになったのですから、これは実に大変なことなんですが、しかしご本人の僕はもともとかなりノーテンキにできているらしく、ただ一刻も早くタバコが吸いたい気分になっていました。もちろんまだ体中に管が入っていて身動きもできないのですから、その欲望は押さえ込むしかありませんでしたが、その分すぐに食欲が猛然と湧いてきていました。食事時間が待ち遠しくてならないんですね。特に朝食がそうなんです。
 夕食が5時半から6時ころですし、9時には消灯になるのですから無理もないことだとは思うのですが、それでもやはりちょっと異常でした。4月とはいえ朝は5時ころには明るくなってきて、それから8時までがとにかく長いんです。家にいればビールばかり飲んでいて食事も細いんですが、タバコもだめ、酒もだめではあとは食べることくらいしか欲求にならないんです。上半身を起こすことさえできない体で、まことに不格好な姿勢で朝早くから、しかも酒飲みがまずは口にしない甘い物までをぱくぱく食べ始めたのです。せんべいの類から、チョコレートへ、和菓子へと移り変わって、そして何とヨーカンの長いヤツを1本まるごと食べちゃったりしました。
  ですが、例の原始時代の幻覚というか、変な妄想はまだ続いていて、自分が寝ている場所がなぜか高床式の小屋なんです。部屋まではしごがかかっていて、付き添いの妻や息子も、看護婦さんたちもそこを登って来るんですね。この妄想がいつまで続いていたのかはもう分かりませんが、ただ、看護婦さんにされる質問に答えられるようになるまではそうだったのではないかと思います。脳外科に入院したことのある方はご存じでしょうが、患者には毎日同じ質問が繰り返されます。「お名前と生年月日は?」と「今日は何月何日ですか?」と「ここはどこですか?」の3つです。
 最初の自分の名前と生年月日は答えられるのですが、後の2つは全然だめでした。毎日尋ねられるのが分かってからは、「今日は・・・」をカレンダーをにらみながら「ここは・・・」を密かに前もって予習し始めたんですが、それでもだめでした。とても悔しくてならないのですが、直前まではっきりしていたはずなのにその場になるとどうしても正解がとれないんです。「ええと・・・今日は5月の」などと言い出して看護婦さんの顔色をうかが
うと明らかに失望の色というか、勝ち誇ったような雰囲気が浮かんでいます。また「ここは・・・」と言い始めても「北大病院」という名前がどうしても出てきません。北海道に来ていることは分かっていて、大まじめに考えては「ええと・・・千歳、いや札幌病院、いや・・・」などと答えるんです。
  一方体のほうは実に順調に回復しまして、3食はまるで残すことなくすべてぺろりで、甘い物までどんどん食べて、したがって体重は増え続けました。45度までは体を起こしてもいいよ、と言われてその日の内に90度まで起こして少し叱られたりしながら、やがてすぐに車椅子への移動が許可され、待望のタバコにたどり着いたわけです。そして、これからは息子が大活躍で、群馬の病院時代から慣れていたせいもあり、ベッドから車椅子へ担ぎ降ろすのはすっかり彼の仕事になりました。これが本当にありがたかったんです。この作業、僕の足が例のケイセイを起こしてしまうのでかなりむずかしくて、でも彼は下手な看護婦さんが2人がかりでやるよりもずっと上手なんです。だから学校をいつまでも休ませておくのは心苦しかったのですが、彼にもう群馬へ帰ってもいいよ、とはなかなか言い出せませんでした。
  いや彼だけではなく、今回の僕のじたばたに付き合ってくれた方々には感謝すべき人が多すぎて、前に「善魔」を書いたときの気持ちからかなりずれてしまったので、今は簡単には触れられない思いでいます。次回は腎臓の摘出手術に関して書いてみますが、どうも人の善意の連鎖に触れざるをえないと思っています。

                     (以下次号へつづく)