薄明かりの淵から(1)           大澤恒保        

  連載を中断するなんてみっともないことをやってしまったことをまずお詫びします。すみませんでした。復帰させていただきます。  どう説明すべきなのか今のところまだはっきりしないのですが、この間に僕の体と考え方に起こった変化をお知らせすることが最初に必要なことに思えます。一種の「転向」とも言うべき変わり方なので、自分でもあきれているのですけどね。たぶん長い話にならざるをえないと思うので、何号かに渡って書かせてもらうことになるでしょう。ご了承下さい。
 まず転向などという大げさなことを言うのは「手術は受けない」「大病院には近づかない」という、僕をずっと支えてきたはずの2本柱が消えてしまったことになるからです。そうです。この2つはみなさんにも披露したばかりの僕の「決意」だったのですが、やはり当てにはなりませんでした。僕は大病院で手術を受けてきて、そして今これを書いています。
 匿名にする必要もなく、また同じような病気で困っている人がいることも考えられますから、実名で書きます。僕が手術を受けてきたのは札幌の北海道大学付属病院、そう北大病院です。そこの脳外科で小脳の腫瘍を摘出し、その直後に泌尿器科へ転科して、癌が育っていた左の腎臓も全摘してもらいました。そうです。2年前に脊髄の腫瘍をとってもらったのと同じあの大病院です。また脳外科から泌尿器科へという経緯も2年前とまったく同じですが、しかし今回はその切迫度がまるでちがっていました。緊急入院して緊急手術です。
 どうやら僕は「死」のすぐそばまで行ってきたようです。長い間放ったらかしていた脳腫瘍が命というものを奪うぎりぎりの大きさになっていたんですね。確かに頭痛は続いていたのですが、それが腫瘍の増大のせいだとは自分では考えませんでした。痛くなり方がどうも違う気がしていたのです。小脳の腫瘍から来る痛みが昔18歳で経験したものと違っていて、どこかぼんやりとした重たさでした。でもやはりその腫瘍は昔と同じ種類の「血管芽腫」で水をたたえて脳圧を亢進させるものでした。で、酔っぱらっているような変に不安定な感覚でそれをやり過ごしていたのだと思います。
 そんな状態でしたから3月の初めに地元高崎の病院に救急車で入院したのも、腫瘍とは全然無縁の「大やけど」でした。それもみっともないことにカップ・ラーメンをつくるための熱湯が原因です。前にも書いたように僕は自宅でも車椅子に乗っての日常を送っているのですが、これを動かすには両手でタイヤを回さなくてはならずモノを運ぶのには手が使えません。したがってそろえた両股の上にお皿やコップ、ビール瓶などの小物を置くのが習慣になっていまして、それで熱湯なみなみの発砲スチロールのカップも同じことになったのです。
 で、置いた途端に足が、というよりも股がはねあがったのです。びくんびくんという例の痙攣で、前に書いたことのあるケイセイです。後はご想像にお任せしますが、まあひどいもんでした。あいにく妻も息子も留守で、硬直した両足の間にたまってしまった熱湯を払いのけるのさえうまくいきません。そしてなんと両方の太股とその間の陰部に「大やけど」です。
 いつも来てくれているホスピス関連の看護士さんに看てもらってすぐに救急車となったのはその翌日でした。腫れ上がってただれて大きくなったモノを見て彼は仰天し、僕は自分では患部がうまく見えない上に痛覚が弱くなっていることもあって、さほどのショックはなかったのですが、「馬鹿なことをやっちまったなあ」という思いとともにいわゆる「巨根願望」をすっかり失いました。まことにとんでもないチン体験でしたが、これがその後のできごとの偶然の発端になったわけです。
  なにか大きなことが起きたときにはいろんな偶然が作用しているのが分かりますし、それを「神様のお導き」と考える人がたくさんいることも承知しています。実際、今回の僕の入院・手術にも「大いなる存在」の意思を想定したほうが納得しやすそうなものがたくさんありました。でも残念ながらというか幸いにもというか、僕は相変わらず頑固な無神論者のままで、神や仏に救ってもらったとは今でもまるで考えていません。助けてくれたのは具体的に顔を思い浮かべることのできるひとりひとりの人たちです。ですから僕は「神の意志」とはただ「偶然」の別名に過ぎないと考えています。そしてそういう偶然のひとつがこの「大やけど」でした。
 入院した翌日が以前から申し込んであったMRIの検査日でした。ただ変な頭痛の正体を知ろうとしただけのものでして、これもやはり偶然だったのですが、それは予定通りに行われ、結果はすぐに分かりました。今書いたように小脳の腫瘍が想像以上に肥大化していたのです。それは入院したその病院だけでなく群馬の大学病院でもすでに手術は不可能で、放射線の類が無効なのは腫瘍の性質上当然でした。また、頭蓋にたまる「水」を抜き取るためのシャントというバイパス手術のような方法も危険でやれないという状態だったとのことです。要するに分かったときにはもはやすべてお手上げというありさまだったわけですね。
 書いていることが自分のことなのにどこか人ごとの聞き書きみたいになるのは僕の記憶があいまいなためで、やはり3月ころの僕は一種の「ボケ」状態だったことになります。考えることも毎日変わりました。いえ、まさに朝令暮改そのもので言ったばかりのことをさかさまにひっくり返しては妻や息子を困らせていたようです。
 ですから水頭症から来るその痛みを別にすれば、この間のことはいわゆる「ぼけ」の初期症状に近い感覚が生んだことだったのではないかとも思っています。たぶんそれは人間の体が「死」に向かっていくときに、その痛みや恐怖から心をそらすとても大事な役割を担っているのでしょう。諸感覚が少しずつマヒしていって音も絵もシャットアウトし、痛みや苦悩に満ちたいろんな現実を取り入れなくなっていく。それは周囲にとっては間違いなくとてもしんどいことですが患者本人にとっては決してそうではないと思います。「ぼけ」は人間の救いなのかも知れないと思うゆえんです。さまざまな苦しみから解放されることこそが人間の救いであるはずですからね。
 北大との連絡は主治医を通してフィルムを送ったりして妻と息子がやってくれていたようで、そんな絶望的な状態でも何とか外科手術が可能だとの答えをもらっていました。相当あぶないところまで症状は進んでいて、まさに一刻を争う場面だとのことでした。
 でも、僕は札幌へ行くかどうかはその後ぎりぎりまで決められず、相変わらず「行く」「止める」を交互に繰り返しました。検査結果から緊急事態になっているのは明らかなのに、ご当人の僕はただぐずぐずとためらっていたんですね。車椅子でタクシーと飛行機を乗り継ぐというのは前回で経験済みでしたが、今回はもはや長時間の移動に車椅子で耐えられる状態ではなかったため、寝たままストレッチャーで運んでもらうしかなく、その手配を考えるだけで何もかもどうでもよくなってしまうのです。まあ、このまま死ぬのもいいじゃないか、といったところですね。
 「そうまでして生きたいかねー?」とか、ぼんやりした頭で考えるともう収拾がつかなくなりました。何もかももうじゅうぶんじゃないか。周囲にはもうじゅうぶんに負担をかけてきた。しかももしさらに生き延びたとしても待っているのは不自由でみじめな日常でしかないのは分かり切っている。これ以上の重荷になるのはもうたくさんだ。終わりにしよう。それでいい。
 そういう具合に、すべてをとにかく否定的にとらえていました。多くの自殺者の心理と変わらないのではないかな、と今は思います。
  「死」の近くは、つまり「ぼけ」の世界は、今思うと、とても暗いところでした。よくは分からないのですが、とにかく視界が届かないところと言うべきなのかも知れません。自分も人も薄ぼやけた風景の中にいて見えないのですね。いえ、目が見えなくなっているわけではないのです。もちろん耳も聞こえていました。ですから多少脈絡があやしくなったり、話題が飛んだりということはあっても見舞いに来てくれた人たちとおしゃべりもできていました。ただ、こういう人たちがいて、こういう場所にいるというのが実感にならないというか、要するにうまく分からなくなっていて、精神的な視野というようなものがどんどん狭くなっていた気がします。目や耳からの刺激が入ってもそれらがうまく脳につながらなくなっていたのかも知れません。それに伴ってどうやらあらゆることへの関心が、つまり現実的関心というやつが薄れていきました。自分では意図せずに現実逃避ということになっていくのでしょうか。したがって、周りのすべてがどうでもいいことばかりになるんです。現実からの撤退が始まると、世界が暗くて、狭くて、とても静かなところになっていくということのように思います。
 このまま「死」に至るんだろうな、とぼんやりと考えていました。小脳の腫瘍が大きくなっていて、ぱんぱんに張った葡萄の房みたいになり、やがてそれがパンクしておしまい。そんなイメージでした。そして、それもいいかなあとか、もちろんぼんやりとですが、考えていました。自殺するという大げさな手間もはぶけるし、というわけです。
 そのときの気持ちにいわゆる「死の恐怖」というのはありませんでした。狭くなり、暗くなり、静かになっていくのは確からしいんですけど決して恐くはないんですね。猫が「死」を意識すると進んで死地におもむくというのがよく分かるような気がします。 時間の感覚もおかしくなりました。ちぎれた記憶をひとつずつ前後を考えながらあとで思い出しているようなものです。その時点ですでに想い出の中をさまよっているということなのかも知れません。