ホーチミン カンボジアからベトナムへの飛行機は、6時発の予定であったが2便ほどなくなり、結局8時のフライトとなった。 この辺では少ない人数で飛ぶのは不経済なため、乗客をまとめるためしばしば減便があるという。やむを得ないという感じである。 カンボジアではカフェコーナーにインターネットの設備があったので、自分のページをみた。日本も手軽にインターネットの出来るコーナーがほしい。 この辺は日本がすごく遅れていることを感じる。結局ベトナムのへは9時頃についた。 空港にはガイドのタイさんが待っていてくれた。ベトナムのタイさんである。 ベトナムへきて最初のサプライズは、カンボジア以上にバイクが多いということで、ホテルから下をみるとアマゾンの記録映像などにある軍隊ありが移動する様に似ている。それもかなりのスピードで走っている。 ベトナム戦後の経済復興が著しいと言われるベトナムのパワーを感じた。
クチトンネル ベトナム第1日は、クチトンネルの記念館を見た。 ![]() 記念館ではいかにしてアメリカに勝ったかを、直接的には言わないが、国民の団結と知恵が勝利を収めたと語っていた。 少しくたびれたブラウン管のテレビでベトナム戦争当時のあらましを教えられた。 場内は、ごく普通の熱帯ジャングルであるが、様々なトラップや戦争当時どのような生活をしたかわかる展示があちこちにあった。戦争直後はここも枯れ葉剤で不毛の地だったというが、緑は見事に復活していた。それにしてもこの蒸し暑い気候の中でよく戦ったと思う。 民族の尊厳をかけた戦いで、結局は民衆の力が勝利に導いたのである。若かりし頃、「ベトナム侵略反対」とシュプレヒコールをしながらデモ行進をしたことを思いだした。ベトナム戦争は、最初はベトナム紛争とも呼ばれていた。 1960年に表だったゲリラ攻撃が頻発した。これでいくと2010年は、この戦争が始まって半世紀経つのである。 数多くのベトナム戦争の本を読んだが当時はかなり偏った形でベトナム戦争を解釈していた。 ベトナム戦争は、「アメリカがトンキン湾事件をでっち上げて北爆を起こしたことがきっかけ」と思っていた。 この戦争を単純に、「アメリカによる侵略戦争」と考えていたのである。実際は、米ソ代理戦争でアメリカが途中で直接介入した、のかもしれない。私的には、この当時のベトナム戦争とそれに関わる国々のことについていろいろ調べ、思うこともあるのだが、ここではふれないでおく。 ![]() いずれにしろ、カメラマンとして第一線で飛び回っていた石川文洋さんや沢田教一さん方の写真で戦争の悲惨さを思い知らされ、この戦争はとめなければならない、そんな気持ちで必死にシュプレヒコールを繰り返したのである。この戦争は20年続き、終戦から30年経っている。 戦争の激烈さは、開高健氏が南ベトナム政府軍に従軍した際、激しい戦闘に巻き込まれ奇跡的に生還した体験をベースにした「輝ける闇」がよく伝えている。今、世界を見ると平和になるどころか、あちこちで戦争やら紛争やらが続発している。 こうした対立は永遠に続くのだろうか。場内を歩きながら、 ガイドのタイさんが、「日本も同じように焼け野原になっても10年ほどで復興し。今では世界ナンバーワンのものもたくさんあるのに、同じように戦争経験し20年経ちましたが、かなりよくなったとはいえまだ発展途上です。日本が急速に復興したの ![]() 途中で地雷にふれ破損した戦車があった。実際にここで動けなくなったようである。 残骸をさらしている横を、様々な国の人が行きすぎた。 場内は、所々に戦争時に使った服やジオラマがある。タイヤで作った草履は強そうで、こんなのが私の小さい頃あればよかったのにと思った。私の小学生の頃は、一年中「アサブラ」というゴム製の草履であったが、すぐ鼻緒が切れたり底が早くに減ってしまった。ここに展示されているサンダルはかなり強そうである。服は戦争当時の写真でよく見たが、いかにも着やすそうで涼しげである。 でないとこの熱帯での戦闘に耐えられないだろう。 売店では機関銃の弾丸を土産として売っていた。場内で時々「パンパン」と大きな音がしていた。何かと思えば、観光客に自動小銃を撃たせるスペースがあった。ここで生まれて初めて自動小銃を撃った。実弾を撃つのである。 ヘッドギアをつけて的をねらったが発射音で一瞬にして耳がジーンとして聞こえなくなった。 ベトナム帰還兵が精神的に異常を来す人が多かったという理由がこの辺にもあるのではないだろうか。 この音を生死のはざまの戦場で1日聞いているとどこかおかしくなるだろう。 ごく近くの的であったが10発中一発も当たらなかった。狙撃兵はすごいのだと感心した。娘も体験したが銃床の反動がすごく、押さえられている。向こうに敵がいたら・・ 戦争の是非はいまさら言うまでもないが、男はこういう道具は本質的に好きである。 銃のことを言えば、中学生の頃友達と火薬作りに夢中になったときがある。 そのときに、空気銃の銃身と鋲打ち銃の薬莢で銃を作り撃って遊んだ。かなり高性能であった。 今でも原料が手に入れば作れる。あるとき同級生が火薬を調合しているとき、不注意で爆発させ大けがをしてから、町の薬局すべてで原料を売ってくれなくなった。 世の男は、そのDNAのなかに狩猟本能を持ち、こうした銃などを撃って獲物を手に入れたいという欲求が起こってくる。 戦争は絶対反対だが、鳥を捕ったりするのはワクワクする。 その延長線上に銃がある。 10発の弾丸を撃ち終わって、係の人に、 「ヒット?」と確かめると 「イット ダズント ![]() そしてトンネルくぐりをした。狭く、蒸し暑く、暗い!この狭いトンネルを縦横無尽に動き回り、アメリカ軍を翻弄したのだ。このトンネルのアイデアは旧日本軍が教えたのだという。 私はこういう閉鎖空間でも苦もなく耐えることが出来るが、閉所恐怖症の人はとてもいられないだろう。 そんな中で、何年も、いつ死ぬか分からない極限状態で暮らすのには本当に忍耐のいることだったろう。 頭が下がる。 クチの地下道は、地下トンネルネットワークで、ベトナム戦争中に、南ベトナム解放民族戦線によって作られたというが、200kmものトンネルを造ること自体すごいことである。 ここよりカンボジアとの国境付近までトンネルが張り巡らされているということに感心してしまう。 万里の長城もすごいことはすごいが、より効率的で戦略的といえば、こちらの方に軍配が上がる。 しかしアメリカは、このインドシナ半島にベトナムを中心に実に1400万トンもの爆弾を降り注いだのである。 第二次世界大戦でも610万トンしか使っていないのに、まさに雨あられの爆撃だったのがこの数字でも分かる。 そんな圧倒的な爆撃をかいくぐり、ベトナム民衆が勝ったのである。 小さなベトナムが強大なアメリカになぜ勝ったか? 「工夫で勝利しました」ガイドさんのタイさんが誇らしげに語ってくれた。 最後に、トンネル生活の主食だったというタロイモを食べた。 砂糖と塩とゴマを混ぜたものがつけるようにあったが、私は何もつけないで食べた。味はサツマイモを蒸かした味がしておいしかった。これなら毎日食べても大丈夫だし、米と一緒で栄養がある。幾ら勇敢でも腹が減ってはだめであるがこの芋さえあればしのげる。食べ物では売店で、ライスペーパー作りの実演をしていた。お姉さんが作ったライスペーパーをせいろに広げて次々と干していた。売店でも売っていて、記念に買って帰ろうかと思ったが、「じゃーどうして食べるの」と、娘と意見が一致して、買うのをやめにした。出口付近には悪名高きナパーム弾や大小様々な爆弾が置かれていた。平和な地球は誰もが望んでいることなのだが・・・
バイクバイク ベトナムのバイクの多さには驚いた。テレビなどでは見ていたものの、実際目の当たりにして感心した。バイタリティがみなぎって経済成長まっだなかという感じがした。まだヘルメットが法制化されていないので(近いうちになるとガイドのタイさんが言っていた)まちまちなスタイルだが、それがおもしろかった。ベトナムはスコールがあるが、それ用の雨具がよくできている。 これを買って帰ろうと思ったが、売っている店が分からなかったので買えなかった。たぶんバイク店にはあったと思うが行けなかったのである。 タイさんは、ヘルメットが法制化されることを言った後続けて、「日本製のは高いですがぶつかっても割れなくて安全です。でも中国製はすぐ割れてよけい危険です」
統一会堂 昼食は市内に戻りかレストランで食べた。春巻き以外の料理の名前は忘れたがどれもおいしかった。 ![]() 日本と同じ調理法が多いが、タレがそれぞれの国で個性があって面白い。 ホーチミン市二日目は、南ベトナム政権時代の大統領官邸を博物館にしたものを見学した。 ![]()
統一会堂(旧南ベトナム大統領府)といい贅を尽くした造りになっており、当時の権力の強かったことがわかる。
人民解放軍は、1975年4月30日に正面から戦車で突入しここを占拠したのである。 突入時の戦車が当時のまま正面入口におかれている。 建物内部は、内閣会議室や迎賓ルーム、地下司令室など100室以上あり、当時のままの状態で公開している。 建物の裏手にはヘリコプターが、今にも飛び立ちそうな感じでおかれていた。 1975年というと34年前である。もうそんなにたってしまったのかと思った。 館内はたくさんの観光客でにぎわっていた。ホーチミン市は、ベトナム戦まではサイゴンといっていた。戦争終結間際には、新聞では「サイゴン陥落」という文字が躍った。解放戦線はここに突入した。 そのサイゴンが、ベトナム社会主義共和国が成立した1976年に、共産党指導者のホー・チ・ミンに因んでホーチミン市に改称されたのである。
中央郵便局 ![]() ![]() 赤煉瓦作りの優雅な大きな聖堂がそびえていた。 聖母マリア教会で、多くの人々が訪れていたが私たちは入らなかった。(入れなかったかもしれない) そのすぐ横には、駅舎のようなこれもレンガ造りの中央郵便局がある。ホール正面にはホーチミンの肖像画が飾られていた。19世紀(1886~1891)のフランス統治時代に建てられ、ヨーロッパの駅に似ている。重要な建築文化財である。中央郵便局は、観光客やら地元の方やらがたくさん出入りしていた。煉瓦作りなので貫禄がある。私はここでベトナムの景色の絵はがきを買った。 よく整備された広い道は、バイクが多いので、渡るのが大変である。アジアらしい、はちゃめちゃな活気と熱気が溢れ出ている。 周辺の街角にはたくさんの、興味がそそられる店がたくさんあった。
ベトナム戦争証跡博物館 戦争証跡博物館を訪れた。ベトナム戦争の歴史を、実際に使用された戦車、大砲、爆弾など戦争遺物、写真など展示で綴る博物館である。ホーチミンの第3区ボーバンタン通り28番にあり、1975年9月4日にオープンしたという。 ![]() ベトナム人民への国際的支援の展示室や子供達の『戦争と平和』の絵画コレクションの展示もある。 この博物館を見て感じたのは、ここにある展示品や写真は決して過去のものではないということである。 現にベトナムやカンボジアにはいまだに当時の地雷で命を落としたり、けがをして手足の不自由な人がまだ多くいるからである。 ホルマリン漬けにされた奇形胎児が展示されていたが、これは戦争犯罪である。 日本への原爆投下と通じるものがあり、白人のいる国や地域にはこれほどひどい兵器は使わない。人体実験をしたのではないかと疑ってしまう。 瓶の中の胎児たちはしっかりと枯れ葉剤の被害と戦争の悲惨さを訴えていた。枯れ葉剤による影響で二人がくっついたまま生まれてきたベトちゃんとドクちゃんのことは記憶に新しい。胎児などの写真も撮ったが、ここには掲載しないでおく。 私が次に注目したのは、ベトナム戦争で命を落としたジャーナリストの一覧である。本当にたくさんの記者やカメラマンが死んでいる。一ノ瀬泰造のカメラの写真がパネルで展示されていたが、機銃弾はものの見事に頑丈なニコンFを貫いていた。 開高健さんも同じ時期に来ていたのだがよく帰れたものである。とは自分でも書いていた。 少し気になったのは、開館してかなりの年数が経つため、写真などの劣化が進んできている。最近のデジタル技術で整備してほしい。コストも昔ほどはかからないと思う。負の遺産として、後世にきちんと引き継ぐべきである。
ペンタイン市場 ベンタイン市場にいった。かなり大規模な市場で、衣類・食品・雑貨のほとんどが揃っている。 ![]() 南国独特の食べ物などが豊富にあり、もっと時間をかけてみたら面白かったと思う。やはりこうした市場は、その国の生活を知るのに最適な場所である、 日本の市場が廃れていっているが、陳列なども含めて、少し売り方を勉強したらいいと思う。取り澄ました売り方はスーパーやデパートに任せて、ごった煮のおもしろさと意外性を表現できたらこの市場のように観光スポットになるのではないかと思う。 現に海岸縁のとれとれ市場などはどこもよく流行っている。 ペンタイン市場から少しのところに露天商ばかりの横町があった。市民は普段はここで買い物してる感じで、ここもよく賑わっていた。こうした雰囲気の横町は、世界中どこに行ってもある。こういう景色を見ると、うれしくなってくる。
ミトージャングルクルーズ 朝からメコン川に向かった。ホーチミンからミトーは約70キロという。 ![]() 運転手さんはすごく運転がうまかった。1時間半くらいで目指す船着き場に着いた。 ホーチミンでは、アオザイの人を期待していたのだがほとんど見かけなかったが、ミトーまでの道すがら、女子高校生たちが真っ白なアオザイ姿で自転車に乗っていた。制服のようであった。いろいろな民族服があるが、アオザイはかなり上位に位置するすてきな服である。 途中ガソリンを補給したが、スタンド風景は日本と変わらなかった。沿道のお店も30年くらい前の日本のような感じであった。 これ以上スタイルを変えずに残っていてほしいと思った。 ミトーに着いた。目の前にメコン川がゆったりまったりと流れていた。トンレサップの時と同じように、ナマズが口を開けて待っているのではないかと思った。そこからいきなりジャングルクルーズがあるのかと思ったがそうではなかった。いったん中洲にいくらしく、そこに渡るために船着き場があった。前から一度見たかったメコン川なのでうれしかった。 想像していたより水の色が茶色い、そして広い。「メコン」とはカンボジア語で「母」という意味だそうで、メコン川は母なる川になる。 連絡用の船にはタラップをわたって乗り込んだ。少ししめった風に吹かれながら船は快調に進んだ。 途中の漁船や水上家屋、そして魚を網ですくう子供たちが、何となく懐かしさを感じた。 紛れもなくアジアの風景で、日本につながってることを改めて実感した。 30分たらずで中州に着いた。 ![]() 女性はしきりに蜂蜜を勧めてくれた。ガイドさんはローヤルゼリーの効用をしきりと説明しかなり強引に買うように勧めてきたが、結構高かったのでペットボトルに入った普通の蜂蜜を買った。 もしロイヤルゼリーを買えばガイドさんにロイヤリティが入るのだろうが、こちらはそれほど余裕がない。蜂蜜のお茶はおいしかった。いろんなフルーツの試食をした。どれもがおいしかった。 バナナ、パイナップル、パパイヤ、そしてジャックフルーツ、ドラゴンフルーツ。 どれもがこのあたりでは普通の果物なのだろう。島のあちこちに土産物売り場があり、南国らしいカラフルな品物が並んでいた。 ここメコン川は、中国に源を発してミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアを経て、ここベトナムのデルタ地帯を流れて、そして海に注いでいる。日本では及びもつかないような大河である。 メコン大ナマズなど多くの淡水魚が住んでいる。そして未だに新種が発見される川である。 ![]() そんなすばらしい川に、支流も含めると30を超えるダム建設計画があり、環境や生物、そして生活への悪影響を与える事への懸念があるという。ダムが出来ると回遊性の魚類などがその回遊ルートを断たれたり、水量が減ったりしてダメージを受けるのは間違いない。さらにやっかいなことに川が長いので、ダム建設が一つの国だけではなく、たくさんの国にまたがっているということである。どうすれば生態系に影響を与えない形で、人間の生活の営みを保証できるか世界が一つになって考えていってほしいものである。住民の生活を考えても、日本の川や湖の魚や貝の漁獲量が激減している現状から、この母なる川メコン川がそうならないように力を合わせてもらいたい。 ![]() はじめは普通に遊んでいるのかと思ったが、皆でベトナムの歌を歌ってくれた。 もちろん何を言っているか分からなかったが、他のツアーの人が、おひねりを上げると皆その人達に向かって歌い出した。なるほどそういうシステムだったのかと分かった。 かわいい歌手達は一生懸命歌ってくれた。私たちも額は少なかったがおひねりを渡した。 でも前では歌ってくれなかった。満足行く額ではなかったのかなー、と反省。 ![]() 中州はもうすでにジャングルの様相を呈し、木が茂りいろんな果物があった。 日本では単体で見るしかないので木にぶら下がっているので、ああこんな実のなり方をしてるのか、とはじめて分かった果物もあった。 ジャングルになって陽射しを遮ってくれているため、思ったほどは暑くなかった。やはり川の上で天然のクーラーになっているからだろう。 クルーズは、女性二人が漕ぐ小さなボートに乗って、メコン川の支流を行く。 乗客は皆すげがさをかむった。小さな手漕ぎボートは、ジャングルの中を静かに進んだ。やはり漕ぐのは上手であった。 カヌーで行きたかった。この川ならカヌーからロッドを出してトローリングをすれば、すぐにヒットしそうな感じである。 途中何隻もの船とすれ違った。実は、ジャングルクルーズというから、途中で船からの物売りや、中継地点があると思っていたが、それはなく20分くらいで元の場に帰ってきた。もっといろいろ廻りたかったし時間も短かったので物足りなかったがこれは仕方ない。ベトナム戦争の時はメコンデルタの名前がいつもでていた。ここも戦場の中だったろうと思うと、平和のありがたさを感じる。 戦争の時はここを弾丸が飛び交ったのだろう。
ホテル・昼食 ![]() ![]() 昼食はミトー市内のレストランで、ミトー名物の象耳魚(エレファントイヤーフィッシュ)を食べた。メコン川の魚を揚げたもので、ライスペーパーに野菜といっしょに包んでニョックマムをつけて食べる。最初に魚が立ったまま出てきた。日本の活け造りを立てた感じである。美味しかった。 メコンの泥で匂いがあるかなと思ったがそれほど強い匂いではなかった。揚げてあるのでパリッとしており、食べ応えがあった。 エビも日本の手長エビを一回り大きくした感じで味もよく似ている。あとは餅を丸く揚げたものや鵝のロースト、鍋のスープが出てきてそれにご飯を浸して食べる。最後に竜眼が出てくるが腹一杯になってしまった。 ![]() 面白かったのは、店の中に大きな池があり、食べ残しなどをそこに放り込むと、今食べた魚と同じ種類のものがわんさか寄ってきて、食らいついていた。食べ頃になったら食卓に上るのだろう。合理的システム。 メコン川クルーズを終えて、昼食をすませた後、いったんホテルに戻った。飛行機の時間にはかなり間があったので、周辺を散策したり、スナックに入ったりした。スナックには経営者の写真を大きく掲げていた。支店もたくさんあるようで、立志伝中の人なのかもしれない。路地裏に散髪屋があった。ちょうど髪も伸びていたので刈ってもらおうかなとも思ったが、飛行機が中途半端な時間であったため、やめた。 そしていよいよベトナムを離れる時間がきた。ベトナムは、カンボジアの圧倒的な遺跡のおもしろさとはまた違ったおもしろさがあった。機会があれば、今度は北を訪れてみたい。 そんなことを思いながら飛行機に乗った。
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