日本の旅 あれこれ

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餘部鉄橋

餘部鉄橋が建て替えらされるというので我ながらミーハーとは思いつつも、見に行った。
青春18切符を使った。前の日に西国33所の円教寺に参詣し、姫路駅前のホテルに宿を取った。
明くる日姫路駅からJR播但線の電車に乗り餘部鉄橋に向かった。
途中までは電車で快適であったが、和田山から乗り替えたのはジーゼルで、寺前からは単線になった。少しヨタヨタとしているがきちんと走った。車内にはジーゼル特有の油臭さが漂っている。私はジーゼル区間が好きである。なぜかというと電車区間のように、不粋な電柱がないからである。
これからもジーゼル区間はハイブリッド電車にするなどして、電柱をないままに運行してほしいと思う。
さて次に和田山で列車をJR山陰線に乗り替えた。
今度は電車になった。次に豊岡で同じくJR山陰線香住行き乗り替えた。
今度は城崎温泉駅で浜坂行きに乗った。何とも乗り換えの多い時間帯を選んでしまった。
城崎温泉駅では1時間以上時間が余ってしまった。

付近をぶらぶらしたあと、城崎温泉駅売店でカニ飯を買い列車の中で昼ご飯にした。
姫路から待ち合わせも含め4時間42分と5時間近くかかる。しかし景色がいいのと、いろんな列車に乗れるので、退屈することはなかった。特に城崎から目的地の餘部鉄橋までの日本海は、太平洋育ちのものにとっては珍しく、旅をしているという感興を味わえる。
餘部駅にはいきなり、社会主義国がよくやるような建設途上の大きな絵看板があった。この地域への鉄道建設は大変だったことがうかがえる。絵が風化して所々はげ落ちているのが、むしろ当時のすごさを思い起こされて迫力がある。
別の看板には、この鉄橋の概略を紹介したものがあった。それには、
「施工が明治42年12月16日、開通が明治45年3月1日、高さが41.45mで橋脚が11基、橋台2基、鉄桁23連で、総工費は331535円総人工25万人という」ことである。
エピソードには、
「橋脚の鋼材は、アメリカのブリッジカンパニーのベンコイド工場から約3ヶ月かけて船で送られ、明治43年8月下旬餘部沖でハシケに移し余部浜から陸揚げされました。当時の余部集落は30戸足らずの漁村であり、陸路によるアクセス路はなく海路が唯一の交通路でした。ここで部材を一つでも誤って海中に沈めると、米国からの取り寄せとなり大幅に工期が変更になるため、ハシケによる運搬は特に慎重に行われ、いつも荒れがちな日本海が、幸いにして陸揚げ期間中ずっと穏やかな「ナギ」であり無事作業を完了しました・地上41メートルの工事だけに、作業員には当時としては2万円という巨額な保険がかけられた」とある。
これを読んだだけでも、当時の余部の生活を垣間知ることが出来る。

餘部には2時過ぎについた。おりから青春18切符の時期で、手には青い切符を持ちたくさんの人がカメラとリュック姿でホームをうろうろしていた。
駅員さんに「たくさんの人ですね]というと「昔はほとんど乗るお客さんもなかったのに鉄橋をやりかえると一気に増えて大変です」といった。記念切符やいろいろ餘部グッズをホームで売っていたので、まんざらではないはずである。
雑誌などでよく見る撮影ポイントはすぐ分かった。駅の裏手の山の中腹で、カメラを構えた人だかりができていた。
三脚もたくさん並んでいる。
すこし遅くなったので、いいポジションは無理かなと思ったが結構いいところが残っていた。不自然な姿勢のまま列車の来るのを待った。列車の通過は二回待った。人気のある撮影スポットだけに普通に撮るだけで絵になる。雪の風の吹きすさぶときもいいと思った。


(駅や車窓から見る景色が面白い)

(うーーんまあこんなものだろう
 
■走行中の動画
 

一回目の列車を撮り終えて、次の通過までの間、駅からの坂を降り街にでた。
このあたりの家の作りが好きである。海岸は小さな公園がありバイクが次々やって来た。
当然街中からは鉄橋が見える。たしかに高い。その上から列車が落ちたのだ。
一瞬だろうがその時の乗客の恐怖はいかばかりだったろう。6名がなくなり、6名が重傷を負った。もしこれが都市部のもっとたくさん乗った列車だと被害はさらに大きいものになったであろう。これも鉄道側の人為ミスだった。

   
 

ふたたび駅に戻り帰路についた。少し曇っていたが、日本海の景色が楽しめた。
帰りの列車は城崎駅で大阪行きの特急「北近畿」に乗った。この乗り替えのとき、カメラを前の普通列車に置き忘れてきたのに気がついた。
あわてて特急を降りまだ発車していなかった普通車に戻るとちょこんとカメラは、あった。
発車していなかった幸運に胸をなで下ろしたが乗ろうとした特急は出てしまった。次の特急「はまかぜ」に乗って大阪駅まで帰りついた。カメラを置いたまま席を離れることはまずないのだが、何か別のものを持ちあげた感触をカメラと思ったのかもしれない。
特急は3時間足らずで大阪に着いた。
餘部鉄橋は2010年8月に完成するようである。
完成したときには、再度訪れて、レポしたい。
現在の橋りょうも一部残すようなのでその違いを見るのが楽しみである。 

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