第23回上村忌
2011年10月14日(金)
二十三回忌にあたる今年は5名が集まり、いつものように田代屋集合、お墓に詣でました。
追悼会は、今年をもって一旦その役目を終えた事を確認しました。
1989年より今年まで切れることなく毎年墓参りができ、この間遺稿集I(太陽の車)、II(現前性)、追悼文集、貴校目録と上梓しすることができました。
これからは、墓参は個々人の責任に委ねることにして、ひとまず追悼会としての役目を休止することにします。
尚、今後は個人的に湯浅が上村肇の遺稿サイトを立ち上げ、故人の仕事を紹介してゆきます。
これまでの関係者の皆様のご支援・ご協力を心より感謝申し上げます。
第22回上村忌
2010年10月11日(月)
今年は、連絡がうまくいかず結局4名に留まったが、田代屋さんに集合。田代屋のおかみさんから特別に白百合を寄付してもらい、お墓に詣でました。墓参後、昼食をとりながら、来年の23回忌をどうするか話し合った。企画を考えながらの半日でした。
第21回上村忌
10月12日(月)小平霊園に5名が集まりました。霊園前田代屋さんに集合後、墓に行き植木、墓石の手入れと墓の回りの掃除後、献花。個人を偲びました。
第21回上村忌のお知らせ
来る10月12日(月)小平霊園にて上村忌をおこないます。当日午前10時半に霊園前、田代屋集合後、墓参する予定です。昼食会あり。
8月26日に墓前を掃除してきましたが、当日植木などの手入れが必要かもしれません。
川喜田先生お別れ会
7月25日(土)墨田区の西光寺にて川喜田二郎氏を送る会が行われた。午後2時からだったが、参加者が詰めかけたために2階の本会場に入りきれず、一階にも人があふれた。そのため弔辞は、一階に設置されたスピカーを通して聴くしかなかった。最後は、故人の母校である旧制三校の寮歌(逍遥の歌と琵琶湖就航の歌)を合唱して締めくくった。
沖縄移動大学の中でも琵琶湖就航の歌は良く歌った記憶があるが、弔辞を聞いていてつくづく川喜田先生のチームワーク理論が上村肇にも影響し、それが自分自身も深く影響を受けていることを改めて実感した。昨今の世相を見る限り、果たして両名の故人がどう思うか、改めて聞いてみたい気がした。
個人的な移動大学の中での川喜田先生の思い出は、とにかくすごいいびきであったことである。
(演農居士)
訃報:川喜田二郎氏
川喜田二郎氏が去る2009年7月8日に死去した。川喜田先生と上村肇の接点は、1968年の第1回移動大学(長野黒姫高原)からである。一般参加者から始まり、移動大学のプロジェクトリーダー、KJ法のインストラクターとして、両者の関係は続いた。川喜田先生編集の「移動大学」(鹿島出版会)の附論を上村が書いたことでも両者の関係は緊密であった。
上村死去後は、上村忌に小平霊園にも足を運んでいただいて個人を偲んだこともある。 謹んで川喜田先生のご冥福をお祈りします。
今村義治氏寄贈微笑ひとつ白百合似合う弥勒かな 句碑
故人が亡くなる前に京都を旅行した折のことを思い出して綴ってあったいくつかの俳句の冒頭の句を墓前に建立。
miroku-kai