多数の学徒兵が特攻隊への参加を拒否(元学徒兵、Eさんの体験記)

数年前にフランス語の関係でお知り合いになったEさん(ご本人のご希望でお名前は伏せさせていただきます)は、第2次世界大戦末期の1943年に第1回学徒出陣(正式には「学徒兵入隊」、出陣学徒壮行会は1943年10月21日に東京・明治神宮外苑競技場〔旧国立霞ヶ丘陸上競技場〕など全国各地で挙行されました)で旧帝国海軍に入隊されたそうです。戦況の悪化に伴って戦死者が増加し、兵力不足が深刻化したため東条英機内閣は、1943年10月に理工系と教員養成系を除く文化系の高等教育諸学校(大学、現在の大学の教養学部に相当する旧制高等学校、旧制専門学校)の在学生の徴兵延期を廃止し、徴兵検査に合格した学生を同年12月から入隊させることにしました。このようにして戦場に学生を送り出すことは一般に「学徒出陣」、入隊した学生は「学徒兵」と呼ばれていますが、Wikipediaによれば、その総数は13万人に上ったそうです。戦局がさらに悪化してくると特別攻撃隊(神風特攻隊)に配属され戦死する学徒兵が多数現れたそうですが、残念ながら戦死した学徒兵の数は概数さえも明らかにされていないそうです。

Eさんは、フランス語が堪能でいらっしゃることもあって、自分史をフランス語で書かれましたが、そのうちの学徒出陣から終戦までの間の部分は、貴重な歴史記録であると思います。特に、自分史の内容のうち、多数の学徒兵が特攻隊に加わることを拒否していたことはほとんど知られていないと思いますし、忠誠心に欠けると見なされた学徒兵に対する過酷な処罰(拷問、いじめ)は私からみれば、正に狂気の沙汰だと思います。

厳しい制裁を受けることが分かっているにもかかわらず、勇気を持って特別攻撃隊への参加を拒否した学徒兵が、Eさんを含めて多数に上っていたことは、戦時中にも冷静かつ独立した判断ができた人が多数いたことを示しているとみられるため大変心強い思いがしました。そのためEさんのお許しを得て関連部分の翻訳を下でご紹介させていただくことにしました。

中国人の大虐殺や、人体(生体)実験、内部での過酷ないじめなど、上官の命令なら、どんなひどいことでも平気で実行されたのが旧日本軍でした。ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺の責任者の一人であるアドルフ・アイヒマンは裁判で、大量殺人に至ったのは、上官の命令に従っただけのことであると発言したそうです。ユダヤ人政治学者、ハンナ・アーレントは、歴史に残る戦争犯罪も、自分で考える能力が不足していることによって引き起こされることがあると指摘しました(「悪の凡庸さ」かと「悪の陳腐さ」と表現されているようです)。安倍政権が着々と軍国主義化を進め、年金や健康保険などの削減など、庶民の生活がおびやかされていても、何も考えることなく、黙って受け入れるだけの最近の日本人の思考能力の低下は、ナチスドイツのような狂気に再びつながる可能性があると私は感じています。その意味でも、戦時中でさえ冷静かつ独立した判断力を備えていた学生が多数いたことは非常に重要な歴史事実だと思います(2017年1月8日)。


『大日本帝国の天皇』
(Eさんがフランス語で書かれた、"L'Empereur du Grand Empire du Japon"の第8章以下の翻訳)

8. 学徒出陣


私が旧制高等学校2年生だったとき(1943年、20歳)、文科系の学生に対する徴兵猶予の優遇措置が廃止されました。その年の12月に(赤い紙に印刷されていたため)普通「赤紙」と呼ばれていた召集令状を受け取りました。

多くの若者が前線に送られました。町中の通りでは、「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」と住民が連呼する声が響き渡っていました。これは出征するために家を出る若者を激励するための一種の壮行会でした。そして人々は天皇をたたえるための軍歌を歌いました。その一部をご紹介します。

--- 「天皇陛下のためならば なんで命が惜しかろう・・・」(「露営の歌」 ( 作詞:薮 内喜一郎 作曲:古関裕而 )、口語訳「天皇陛下のためなら、どうして命が惜しいなんてことがあるだろうか(命なんか惜しくはない)」)

--- 「しばし露営の 草枕 夢に出てきた 父上に死んで還れと 励まされ ・・・」(同じく「露営の歌」、「短時間の露営(軍隊で屋外にテントなどを張って宿泊すること)の際に、死んで戻ってこい(命をなげうって戦ってこい)と父から励まされる夢を見た・・・」)  

--- 「思えば今日の 戦いに朱(あけ)に染 まって にっこりと 笑って死んだ 戦友が 天皇陛下万歳と残した声が 忘らりょか」(同じく「露営の歌」 、「今日の戦いで血に染まって笑って死んだ戦友が、天皇陛下万歳と叫んだ声を忘れられるだろうか(忘れられない)」)  

--- 「大君の辺(へ)にこそ死なめ かえり見はせじ」(「海ゆかば」 ( 作詞:大友家持 作曲:信時 潔 )、「天皇陛下のおそばで死のう、 後悔はしない」 )

こうした社会全般の雰囲気にもかかわらず、特に皇居前広場の一件(引用者追記:自分史のもっと前の部分に、勤労奉仕で皇居前広場の雑草取りに動員され、休憩で腰を下ろしていた際に足が皇居の方向を向いていただけで、怒鳴られたことや、ほかの数々の不合理な経験から、天皇制に疑問を持たれるようになった経緯が書かれています)以降、私は天皇制に対して常に反感を持っていました。そして、旧制高等学校の送別会では次のように挨拶しました。「私は天皇のために死にたくはありませんが、不幸にして、海戦で死ななければならなくなった場合には、国のため、民族のために死ぬでしょう」

9. 学徒兵による抵抗の動きの高まり

武山海兵団(横須賀の近く)での2カ月の訓練の最後に、戦闘機の操縦士(パイロット)になるための身体検査を受けました。私は試験のために乗せられた回転椅子から転落しなかったため、自動的に三重県の三重海軍航空隊に配属になりました。これは人間爆弾のグループ(引用者追記:帰還することを前提としない「神風特別攻撃隊」が編制されるのは1944年10月でしたが、帰還する可能性が低い攻撃を行う「特別攻撃隊(特攻隊)」が1941年から存在していて、実際、特別攻撃隊の攻撃から無事帰還した兵士はほとんどいませんでした。)に配属になることを意味していました。このため私は深刻な不安に襲われました。

しかし、軍隊のこうした決定によって不安に襲われたのは私だけではありませんでした。多数の兵士が同じ不安を感じていましたので、全ての兵舎を異様な雰囲気が支配するようになりました。軍当局は共産主義運動の影響を疑ったとみられ、こうした考えが兵舎内に広まることを恐れていました。

さらに、学徒兵は一人ずつ分隊士(少尉)の前に呼び出されて、人間爆弾として死ぬ心構えがあるかどうかを明言することを求められました。この二者択一に伴う精神的圧力はすざましいものでした。死ぬ心構えはないと宣言しようものなら、天皇に対する反逆者とみなされて直ちに監獄送りとなりました。

この意思確認の際には、学徒兵は建物の外に集められましたが、その際軍当局は学徒兵が会話をすることを全面的に禁止しました。私語を徹底的に排除するために、待機時間中には竹製の小さな呼子笛(ホイッスル)を口にくわえさせられました。これには、表向きは、モールス信号の練習のためという理由が付けられました。

しかし、私は死ぬ覚悟があるとは答えられず、アメリカの空母に体当たりするために、操縦桿を前に倒すことはできないものの、海戦では国のため、民族のために死ぬことができると言いました。その結果、私は忠誠心のない兵士とみなされることになりました。

しかし、海軍にとって予想外だったのは、この意思確認で忠誠を誓わなかった学徒兵が多数(Eさんが把握されているだけでも少なくとも数百人)に上ったことでした。しかもこの状況は三重海軍航空隊に限ったことではなく、全国各地で同様な状況がみられました。学徒兵のこうした反抗の広がりに直面して、軍当局は大きな衝撃を受けました。この事態に対する対応策を協議するための会議が開かれて、長時間にわたる徹夜の議論の結果、次のような結論が得られました。つまり、これら反抗的な学徒兵は本来なら監獄に収容すべきだが、兵員不足が危機的状況にあることを考慮して、これら兵力を無駄にするのを避けるため、パイロット以外の任務に就かせることを決定しました。さらにこれら学徒兵の精神をたたき直して、忠誠心を持たせ、忠実な兵士に生まれ変わらせるために、厳しい再教育を受けさせることにしました。

そのため私は監獄送りになるのは避けられましたが、その後経験せざるを得なかった特別の再教育は、囚人に課せられた罰よりもはるかに耐え難いものでした。

10. 海軍精神棒

私に対する特別の再教育は、厳しい教育が行われていることで有名だった徳島海軍航空隊で行われました。部隊での規則は非常に単純かつ明確なものでした。つまり、異議を唱えることなく規則を守り、上官の命令に従わなければならず、敵には、ちゅうちょすることなく、正面から立ち向かわなければならないことなどが義務づけられました。定められた規則に従わない場合には処罰が下されました。そこには、説明も、論理も、理論も、哲学もありませんでした。処罰の例を次にいくつかご紹介しましょう。

例1. 夜間に1人の兵士が兵舎内のトイレから出て寝室に向かって歩いていました。それを見つけた監督役の上官が「止まれ」と怒鳴り声を上げ、なんの説明もせずに、その兵士のあごを力一杯なぐりました。実際、規則では、兵舎内では常に急いで走ることになっていて、歩くことは厳禁でした。

例2. また、ある兵士が階段を1段ずつ上っていましたが、その際にも、「止まれ」の怒声がかかり、顔面をしたたか殴られました。階段は2段ずつ上ることになっていたためでした。

例3. 朝、兵士たちは起床ラッパを合図に起きて、掛け布団を素早く折りたたまなければなりませんでした。しかし、ベッドの整頓が不十分な場合、監督役の上官が、布団をひっくり返して、問題を起こした兵士を殴りつけました。

これらの例が示すように、兵士は24時間絶えず監視され、規則を破った場合には、顔面をしたたか殴られることになりましたが、この処罰は「修正」と呼ばれていました。

さらに耐え難かったのは、別の兵士の間違いによって「修正」を受けることでした。実際、問題を起こした兵士が誰なのかが分からなかった場合には、分隊(50-60人の兵士で構成される)の兵士全員の責任とされ、全員に「修正」が加えられました。実際、責任は全員が負わなければなりませんでした。

「修正」が行われる際には、最初「股を開け」(しっかりと立つために)、次に「歯を食いしばれ」(歯をいためないために)と言われ、次いで頬を強く殴られました。

罪が重いとみなされた場合には、「修正」はさらに厳しいものとなりました。一人の友人が父親の葬儀に参列することを許可されました。そこで、その友人は、この機会を利用して、別の複数の友人と酒場に飲みに行きました。しかし、この友人は憲兵に監視されていたため、このことがばれてしまい、残酷な罰を受けました。つまり、パイロットが着用するような革手袋を付けた手で何度も殴られました。そのため友人の頬は赤く腫れ上がり、その後内出血のために紫になりました。口元は切れ、血が流れていました。この友人は、しゃべることも、食べることもできなくなり、あごをひどく痛がりました。

最も耐えがたい「修正」は「海軍精神棒(俗称では「バッター」)」と呼ばれるものでした。この堅い木製の棒は、野球のバットよりもはるかに太くて、長いものでした。冷血漢と呼ばれていた、プロレスラーのように筋肉隆々の下士官が問題を起こした兵士の臀部をこの棒で満身の力を込めてたたきつけました。この罰は本当にすさまじいもので、この「修正」は私には拷問またはテロ行為のように思えました。

私はこの拷問を2回受けました。1回目の時には我々数人が、将校のところに一人ずつ呼び出されました。すると将校は、「手を上げろ」と命じました。これは手の骨を骨折しないためでした。次に、やや前屈みになって、たたかれる臀部から離すため手を高く上げた姿勢を取らされました。そこで将校は下士官に「打て!」と命令しました。臀部の筋肉に棒が衝突する鈍い音は恐怖に満ちたものでしたが、私の順番が少しずつ迫ってきました。その瞬間私は、囚人がギロチンを前にしたときの気持ちを味わった気がしました。

2回目には、2回たたかれました。1発目で頭を含めて体中が痛くなり、2発目ではほとんど気を失いました。足はまともに動かなくなり、自分の立っていた場所に戻るのもやっとのことでした。その後数日間、座るだけで痛みが走り、特にトイレでしゃがむのが苦痛でした。私は現在、腰痛を抱えていますが、この慢性病の一因は、はるか昔に受けた海軍精神棒による打撲だと考えています。

11. 御真影奉護隊の隊長

この特別教育は6カ月間続きましたが、その後見習士官に昇格することができました。最初の配属先は追浜海軍航空隊(現在の横須賀市追浜)で、御真影(天皇陛下と皇后陛下の写真)奉護隊(ほうごたい、御真影を守るための部隊)の隊長に任命されました。しかしなぜこんな任務が、天皇制に批判的な私に託されたのか理解に苦しみました。

任命されたのは昭和19年(1944年)末(つまり広島に原爆が投下される約1年前)で、米軍機による空襲がますます激化しつつありました。私の任務は、空襲警報のサイレンが鳴るたびに、天皇陛下と皇后陛下の御真影がそれぞれ入った二つの非常に大きな桐でできた木箱を二人の兵士に安全に防空壕まで運ばせることでした。二つの木箱は、空襲の間、航空隊の正面の丘の麓にあった地下壕に保管されました。

地下壕に運び込む時は、足早に歩きましたが、帰りは、敵に攻撃される危険がないため、儀礼に沿った歩き方で戻りました。私は白手袋をはめて上に向けたサーベルを腰に構えて歩き、二つの大きな白い箱は兵士が頭の高さに捧げるようにして運ばれました。航空隊の正面玄関に隊列が入る際には、衛兵は捧げ銃(ささげつつ)の敬礼によって最大級の敬意を示しました。将校であれ、一兵卒であれ、全ての軍人は歩みを止めて私に向かって敬意を示しました。もちろん、これら軍人が敬意を表したのは私に対してではなく、大きな箱に対してでした。私は頭の中では、なんというばかげた規則なんだろうと考えていました。しかし、再教育を受けたこともあって、その頃になると、私は少なくとも表面上は忠実な軍人になっていました。尋常小学校時代に、国の祝日に行われた儀式での校長の威厳に満ちた振る舞いを思い出しながら、私は非常に堂々と歩くようになっていました。

後になってから、天皇のお陰で米軍機による空襲の間、丘の中の地下壕で一番深く、最も安全な場所にとどまることができたため、天皇に感謝しなければならないということに気がつきました。

12. 天皇陛下に同情

戦争が終わり、占領下の日本で起草された新しい憲法の下では、天皇は「日本国の象徴」となりました。この定義の意味するところは私にはあまり明白ではありませんでした。いずれにしても、天皇は「現人神(あらひとがみ、この世に人となって現れた神)」ではなくなり、一人の人間となりました。

この変革に続いて、かつては神聖な場所であった皇居の庭の一部が一般に開放されました。一人の友人の誘いで解放された皇居を私も訪問しました。待ち合わせ場所となっていた大手門に行ってみると、開門を待つ人の数に圧倒されました。参観者は全国各地から集まっているようでした。皇居内は案内の係員の誘導で長い列になって歩くことになっていました。係員が説明が必要な場所で説明をするときには、最後尾の人が係員の近くにたどり着くまで毎回2-3分待たなければなりませんでした。

これらの善良な参観者の気まじめそうな表情から、日本人の天皇に対する考え方は、天皇が人間になった後もあまり変化していないという印象を受けました。

次に驚かされたのは、庭園が完璧に管理されていた点でした。白い小さな玉石におおわれた広大な敷地には、周りが背の高い樹木の森で囲まれているにもかかわらず、枯れ葉1枚落ちていませんでした。毎日多数のボランティア(勤労奉仕の団体)が皇居内で清掃、庭園作業を行っているとのことでした。

宮殿は、私が予想していたのとは全く異なるものでした。かつての栄光の象徴であった二重橋の外観と調和するような荘厳な建物を想像していたのですが、残念ながら、率直に言えば、実際には宮殿は黒い瓦屋根の白くて細長い巨大な建造物でしかありませんでした。係員の説明によれば、宮殿は日本の簡潔さの美を代表する建物とのことでした。おそらくそうなんでしょう、日本の現人神(あらひとがみ)が住まわれていた寺社建築だったのですから。

しかし皇居内の雰囲気は異常に感じられました。全てが完璧に管理され、簡潔で、静寂がたもたれているというこの雰囲気はほかの国ではあり得ないと思えました。東京都心の騒音さえも、背の高い樹木の森で囲まれているため、ここまでは聞こえてきませんでした。私はまるで病院の無菌室に閉じ込められているかのような印象を受けました。

さらに、外界から遮断され、自由に出入りできないこんな場所で生活しなければならない天皇に対して深く同情しました。気の毒な天皇は、重苦しい作法(プロトコル)に束縛されずに、町中をぶらついたり、劇場に出向いたり、旅行に行くことはできないのです。

そんなわけで、皇后陛下と皇太子妃殿下が結婚が原因でこの場所に閉じ込められたため、いたたまれない気持ちになり、精神的に追い詰められたと言われている理由が、さらによく分かるようになりました。

Eさん(2009年12月)

〔翻訳:小倉正孝、2017年1月8日〕


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