「夢見る権利」ベルギー

「最近気付いたこと」の、「ジャック・ブレルについてのトークショーが開催されました」でご紹介した、「ブレル、夢見る権利」(Brel, le droit de Rêver)展を見に、2003年6月末にベルギーのブリュッセルに行って来ました。ついでに、ブリュッセル市内のブレルの生まれた家などを訪問しました。

ブリュッセル市は、ブレルの没後25年目に当たる今年を、「Brel Bruxelles 2003, (ブレルとブリュッセル 2003)」公式サイト(http://www.brel-2003.be 、ただし英・仏・独・蘭語のみです)と名付けて、数々のイベントを企画しています。日本語の情報は、ベルギー観光局のサイト(http://www.belgium-travel.jp/)の右下にある「Jacques Brel 2003」というボタンを押すと見ることができます。

市内各所には、ブレルの写真やこのイベントの広告が掲示されていました。ブリュッセルの中心であるグランプラスの近くにあり、ヨーロッパ最古のショッピングアーケードである、ギャルリー・サンチュベールには、ブレルの巨大な写真が何枚もつり下げられていました(下の写真)。


また、パリやロンドン行きの国際列車が発車するブリュッセル南駅(Gare du Midi)の構内にも大きな看板がありました(暗いため、手ブレしてしまいました)。

「ブレル、夢見る権利」(Brel, le droit de Rêver)展の会場 (Rue de l'Ecuyer 50, 1000 Bruxelles) は、グランプラスから、ギャルリー・サンチュベールに入り、真っすぐに進んだところにある出口の正面です。下の写真は、この出口から会場となったビルを写したものです。展示はこのビル全体を使って行われていました。

中央が入口で、その左側には、

"Partez cueillir les étoiles mais ne vous réveillez pas ........" (星を集めに出かけなさい、でも目を覚ましてはいけません)

向かって右側には、

"On ne réussit qu'une seule chose, on réussit ses rêves" (人は一つのことでしか成功することができない、自分の夢を実現させることでしか)

と書かれています。この展覧会は場内撮影禁止でしたので、画像はご紹介できませんが、メインはブレルが生きた場所を、ブリュッセルからパリを経てマルケサス諸島まで年代順に再現した10の部屋で、この部屋をブレル自身の声が紹介するという形式になっていて、遺品も展示されていました。

説明はフランス語だけですので、フランス語のリスニング力が要求されますが、英語など9カ国語の説明書も用意されていて、これを見ながら回ることもできます。リスニング力の弱い私のような者のために、フランス語の説明書もないかどうかお聞きしましたところ、それはないとのことでした。また、日本語の説明書もありませんでした。日本語の説明書はないと一人の職員の方が私に説明されているのを聞いていた別の方が、「中国語のものはあります。これではだめでしょうか」と中国語の説明書を見せてくださいました。中国語のものがあって、日本語のものはないというのは、意外でした。中国の方がブレル・ファンが多いと思われたのでしょうか。中国でブレルの人気が高いという話は聞いたことがありません。あるいは、日本語と中国語とは近いため、中国語のものだけを用意すればいいと思われたのでしょうか。私は、日本語と中国語は、見かけは似ていても違う言語であることをご説明しておきました。

展示の方法は、なんとなくディズニーランドに似ていて、子供達にブレルのことを伝えようという意図があるような気がしました。ブレルはブリュッセル市民が誇る歌手となっているようでした。ベルギーの国民的歌手と言ってもいいかもしれません。

次女のフランス・ブレルが設立した、ジャック・ブレル財団が企画を担当

この展示会の企画を担当したのは、ジャック・ブレル財団(la Fondation Jacques Brel)です。この財団は、ブレルが歌手になるためにブリュッセルからパリに旅立ったときに残された家族のうち、次女のフランス・ブレル(France Brel)によって、ブレルの死の3年後の1981年9月に設立されました。この財団の目的は、ブレルのイメージを維持することですが、人々にブレルの作品を紹介したり、関連文書、音声、映像資料の収集を行い、一般に公表したり、3カ月に一度"Jef"という季刊誌を発行して会員に配布するなどの活動を行っています。1988年以降は、がんの研究のためや音楽教育のために資金を提供したり、若い研究者に奨学金を支給したり、子供の入院患者のために病院にパソコンを設置するなどの社会的、文化的、人道的な分野にも活動の範囲を広げています。

財団は現在では、グランプラスからも近いplace de la Vieille Halle aux Blés にあります。財団のホールでは、オランピア劇場での最後の公演の映画が上映されていましたが、私は昔、東京で見たことがあるため訪問しませんでした。ただ、早朝カメラを持って散歩していて、偶然に建物を見つけたため、下のような建物の写真だけは写すことができました。


ブレルの生家

ブレルの生家はブリュッセルの北東側の郊外にあります。ブリュッセルの郊外のあまり有名でない場所に行かれる場合には、行きはタクシーを利用されることをお勧めします。まず、よほど分厚い地図でなければ、住所から場所は調べられないようです。観光案内所で購入した市内地図は、中心部しか載っていなかったため、郊外に行く場合には役に立ちませんでした。トラムと呼ばれる路面電車とバス路線は非常に発達しているようですが、この案内図がこれまた、難解そのもので、ほとんど理解不能でした。ただ、帰りは中心街に向かうバスやトラムは、各車両の行き先表示から分かりますから、それを利用することができました。

ブレルの生家の住所(138, Avenue du Diamant, Schaerbeek)は、「夢見る権利」展の会場で1ユーロ(約135円)で買った、「In the footsteps of Brel」という地図で調べることができましたが、その地図によれば、23番のトラムの乗ってDiamantで降りればいいと書いてあります。ところが、トラムの乗車券を買った地下鉄の駅(地下鉄とバスとトラムは乗車券が共通になっています)でいただいた案内図では、23番のトラムは発見できませんでした。そこで、駅の方にお聞きしたところ、地下鉄1B線のStockel行きに乗って、Roopdebeekで降りてバスに乗り換えるといいとのことでした。この方法でなんとかたどり着けましたが、かなり時間を無駄にしました。

ブレルの生家は、住宅街の一角にある、比較的こぢんまりした建物でした。この建物の3階(欧州の言い方に従えば2階)で1929年4月8日の午前3時ころにブレルは生まれたそうです。現在は、Brel家とは関係のない方がお住まいのようでした。「In the footsteps of Brel」によれば、父親の事業の成功に伴って、1931年には一家は近くの、はるかに大きな建物に引っ越したそうです。ただ、あまり時間がなかったために、そちらの家には行けませんでした。

この家の正面扉はアールヌボー調で、なかなかの鉄工芸製品のようでした。トークショーのときにお会いした、画家の田中真砂子さんが『ディアマン通138番地(ブレル生家)』という水彩画に、この扉をお描きになっていますので、お許しを得て、レプリカのコピーを下に掲載させていただきます。田中様どうもありがとうございました。余談になりますが、ブリュッセルには、アールヌボー調の建物がたくさんありました。アールヌボーの建築家、ヴィクトール・オルタの自宅もあって、現在では、『オルタ美術館』として公開されています。

この扉の左側には、下のような銘板が掲げてありました。

木の陰で読みにくくなっていますので、この銘文を下にコピーします。

"Ici est né / Jacques Brel / 1929 - 1978 /
Il a chanté le plat pays, les vieux, la tendresse, la mort./
Debout, il a vécu sa vie /
et le poète vit encor"

『ジャック ブレル (1929 - 1978) はここで生まれた。
彼は le plat pays(邦題 「平野の国」、つまりベルギー、とりわけフランドル地方のこと)、les vieux (「老夫婦」、直訳は「老人たち」)、la tendresse(「優しさ」)、la mort (「死」)を歌った。 
彼は、自らの考えに従って、自由に生きた。そして、(彼の中の)詩人はまだ生きている。』

上で触れた、「In the footsteps of Brel」という案内地図の説明によれば、この銘文は生家のあるSchaerbeek地域の学生から募集したものの中の優勝作品だそうです。優勝作だけに、非常に凝った作りとなっているようです。

第一に、『彼は、』と『を歌った』の間の部分は、ブレルの歌った曲のタイトルであると同時に、彼が歌によって表現した主要なテーマとも重なります。つまり、『彼は、フランドル地方、老い、優しさ、死について(詩を書いて)歌った。』という意味にもなるようです。

第二に、仏文の下から2行目の最初の"Debout"という副詞は、ブレルにとってのキーワードとなっているようです。deboutという言葉を大修館書店のスタンダード仏和辞典で引くと、(1)立って、立った、(2)起きて、(3)Debout!・・・立て!、起きろ!、(4)etre encore deboutで、(制度などが)存続している、(5)tenir debout、筋が通っている、しっかり立っている、などという意味があります。

"Brel de A à Z" (par Gilles Lhote, Albin Michel)という本(『ブレルのAからZまで』というより、『ブレル辞典』と呼んだ方が良さそうな本です)によれば、ブレルは、板紙工場を継ぐのを断ってパリに旅立つときに、父親に「自分は、自立して(debout)生きて行きたい(Je veux vivre debout)」と宣言したそうです。さらに、1961年には、『Vivre Debout』(自立して生きること)という歌も作ったそうです。

ベルギーが生んだ3人の現代画家

夢を追い続けるというブレルの生き方は、ブレル独自のものなのかと考えると、ベルギーの国民性、または文化的伝統とも関係している可能性があるような気がします。新しいものに挑戦しようというスタンスは、美術の分野でも認められるようです。

例えば、ベルギーは現代絵画の分野でも、ルネ・マグリット(1898-1967)とポール・デルヴォー(1897-1994)というシュルレアリスム(注1)を代表する二人の画家と、特定のグループに属さずに、独自の世界を生み出して、シュルレアリスムやドイツ表現主義の先駆けとなった、ジェームス・アンソール(1860-1949)という、3人の著名な画家を輩出しています。

注1:シュルレアリスム・・・超現実主義ともいう。1920年代の初めにフランスの詩人アンドレ・ブルトンによって始められた、文学・芸術上の運動。1924年にブルトンが発表した『シュルレアリスム宣言』で、それまでの運動が「思考の開放、想像力の復権、夢・狂気・不可思議の再検討」を目指すものであるとして理論的に総括された。絵画の分野では、上記二人のほかに、ダリ、ミロ、デュシャン、キリコ、エルンストが代表的。マグリットがシュルレアリズム運動に参加したのは、1920年代半ばで、これはシュルレアリスムがフランス国外で初めて根付いた例と考えられているようです(『世界大百科事典』平凡社刊を参考にさせていただきました)。

ベルギー観光局が発行している、「ベルギー トラベル マニュアル」(これは無料で配布されているにもかかわらず、64ページの厚さがあり、へたな旅行案内書よりも詳しくて、大変役に立ちました)から、これら画家を紹介した部分を引用させていただきます。

『・・・綿々と続く美への探求は、19世紀から20世紀にかけて、再び新しい形となって蘇生する。
 まず、表現主義の先駆的役割を果たしたジェームス・アンソールの登場。彼は画面に骸骨を描くことによって人間の醜悪(しゅうあく:みにくく、よくないこと)な部分を表現しようとした。
 そして、もうひとつの動きは、マグリットを旗手とするシュルレアリスム運動の芸術家たちの台頭だった。一切の制約にとらわれず、幻想的で奔放な発想。綿密な筆先によって描かれた、写実的なオブジェ。マグリットやデルヴォーの作品には、やはりかつてのフランドル美術の薫りがただよっている。
 このようにベルギーの美術は、独自の伝統を包括しながら、常に新しい芸術の流れを汲み入れていったのだ。それは、ゴシック様式やバロック調の建築物の並ぶブリュッセルの街角に、意外なほどポップなアール・デコ風(注2)のカフェが溶け込んでいるのを見ても分かるだろう。』

注2:アール・デコ・・・19世紀末に流行したアール・ヌボーの後を受けて、1910年代に始まり、1920年代から30年代にかけてフランスを中心に花開したデザイン様式。アール・ヌボーが植物などをモチーフにして曲線を多用したのに対して、アール・デコは直線的で単純なフォルムに特徴があるようです。

これに対して、私の嫌いな(詳しくは問題21(英語)をご参照ください)お隣のオランダの場合には、レンブラント以後に輩出した画家は、ゴッホ(1853-1890)くらいという気がします。

今回の旅行ではブリュッセルの「マグリット美術館」、オステンドの「ジェームス・アンソールの家」、シント・イデス゜バルドの「ポール・デルヴォー美術館」も訪問してきました。オステンドとシント・イデスバルドの位置については一番下の地図をご参照ください。

これら美術館については、他の訪問先を含めて近い内にご紹介します。最後に3人の作品を、絵葉書などからコピーさせていただきました。

2004年2月8日追記・・・・三つの美術館をご紹介するために、「最近気付いたこと」に、『ベルギーの三つの現代美術館と北フランスの都市めぐり』というページを掲載しました。

マグリットの「le Fils de l'homme」1965年(日本語の題名は分かりませんが、直訳すると「人間の息子」となります)。


ポール・デルヴォーの「le Rendez-vous d'Ephese」1973年(これも日本語の題名は分かりませんが、「エフェーズの待ち合わせ」とでもいうんでしょうか)

ジェームス・アンソールの「仮面と死神」1897年、こちらは中央公論社刊『カンヴァス世界の名画13、ムンクとルドン --世紀末の幻想 --』からコピーさせていただきました。

(2003年8月10日) 
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