「問題60(社会)混んだ電車の乗り降り(個人的経験)」というメールをSF様がお寄せくださいました

東京在住30年という読者のSF様(匿名を希望されています)が、「問題60(社会)混んだ電車の乗り降り(個人的経験)」というご意見をお寄せ下さいましたので、ご本人のご了承を得て、ご紹介させていただきます。最後に私の意見を付け加えさせていただきます。SF様どうもありがとうございました。

(1)SF様の最初のメール(2002年5月14日付)

初めて、タイトルの件で、私の経験を申し上げます。

東京に住むようになって30年ですが、非常に混雑している時に、一度降りられない経験をし、それからは、車内の混み具合、降りる駅から乗ってくる人の混雑度を勘案して、降りる駅の前の適当な時間に席を立って、少しずつ、可能な範囲でドアの方に移動し、鞄は前に抱えて、前の人を多少押す形で降ります。降りた後は、一安心で、後からの人に邪魔にならない程度車両から離れたら、普通の速度で歩きます。

混雑している時に、降りる人が途切れると、乗る人が乗ろうとするので、押し合いへし合いになります。外国人の人が驚くのは、そのような状況に慣れていないからではないかと想像しますが。鞄を押し付けるようになるのは、普通に持っていたら、鞄を引っ張られるので、前に抱えるのはやむを得ないと思います。降りたら、後ろの人の邪魔にならない所までは、速く前に行きますが、やれやれ降りれたと普通の歩き方になるのは当然だと思います。

降りられない経験をすると、結果的に過剰反応と見られるような降り方になる場合もあるかもしれませんが、「ウチの者以外は人間にあらず」という考え方の反映と見るのは、考えすぎのような気がしますが。

(2)このご意見に対する私のお返事(2002年5月14日付)

SF様

貴重なご意見ありがとうございました。混んだ電車で通勤する限り、ある程度仕方がない面もあるようですね。ただ、私の感じでは、電車だけでなく、道路で前や横から人が来たときの対応も日本と欧州では違うような気がします。日本では、多くの人が、少しでも自分が先に行こうとするようですが、欧州などでは、譲り合いの競争になる気がします。

(3) (2)に対するSF様のお返事(2002年5月16日、17日付)

中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」は興味深く、私が購入したのは昭和48年35刷でした。混雑した電車から降りる場合の状況説明が自分のしていることに近いので、自分がその場合に「ウチの者以外は人間にあらず」と思っているかと考えると、そうばかりでもないと思ったので、メールを差し上げてしまいました。

テーマから外れますが、定年後十数年たって、一番危険を感じるのは、下り階段で、後ろからすり抜けざまに肩に強く当たられる時です。歩いていて、追い越されることはあっても追い越すことがない状態になっていますので、それなりに用心しなければと思っています。

(5月17日付のSF様の補足説明)

蛇足ですが、14日メールの第2パラグラフの4行目で「多少押す形」と書いたのは、非常に混雑している車内で、次で降りることの意志表示で、相手に分かってもらえる範囲でなるべく軽くということです。

中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」で、「ウチの者以外は人間にあらず」という表現は、社会一般の説明として読めば、それ程抵抗を感じないのですが、自分がそう言われる立場で考えると、「人間にあらず」という表現が強く、自分のこととしては肯定したくない気持ちになりました。

(4)私の見方

私は電車では前の人とある程度の距離を取るようにしていますが、そのため乗り降りの際に後ろの人に「のろのろするな」という感じで押されることがよくあります。押す方は、軽い気持ちでしょうが、押される方は非常に不愉快です。要するに、人が不愉快に感じてもお構いなしで、人よりも少しでも早く「突入」または「脱出」したいのでしょう。日本人は「ウチの者以外は人間にあらず」と思っているに違いないと毎日通勤途上で実感しています。

欧米人と比べた場合の、日本人の際立った特徴、つまり「ウチの者以外は人間にあらず」と思っていると私が考えるようになった理由をいくつかご紹介しましょう。

・ドアの通過・・・欧米人がドアを通過するときは、次に人が来るかどうかを確認して、続いてドアを通る人がいる場合は、ドアを開けたままで待っていてくれるのが普通です。欧米人のドアの通過に関するこだわりは、日本人の想像を超えるものがあります。

例えば、前に働いていた会社で、部下が250人くらいいたイギリス人の役員は、ドアから出て2mくらい歩いたところで、部下の1人である平社員の私がドアに接近していることを知ると、わざわざドアまで駆け戻って、私がドアのところに着くまで、閉まりかけているドアを押さえていてくれました。日本では、そんなに偉い人が、平社員にそこまで親切にするというのは、考えられないのではないでしょうか。

これだけ多くの日本人が海外旅行をし、多くの外国人が日本にいながら、このマナーを実行している日本人がほとんどいないというのは、なさけない限りです。このマナーが当然だと思っている欧米人は、日本に来て、ドアを通過するたびに、鈍感な民族だと思っているのかもしれません(蛇足ですが、英語では、この動作のことを "hold the door open for someone"というようです。研究社新編英和活用大辞典には、She held the door open for her mother. 「母親のためにドアを手でおさえて開けたままにしてあげた」という例文が載っていました)。

・レストラン、バー、飲み屋での注文・・・日本の飲食店ではお客様は神様のようです。お客が、注文したいときには、ウエイターの忙しさにはお構いなしに、呼びつける場合が多いと思います。特に、日本料理店では、これが当たり前に通用しているようです。このマナーが一番通用しにくいのが、タイ料理店だと思います。私が週に1回は行きたいと思っている、東京・日比谷の「チェンマイ」という、日本で一番古いタイ料理店に行くと、ここはもうほとんどタイそのものですから、日本の風習は通用しません(というのは、うそですが)。日本におけるタイ料理の殿堂ともいうべき当店に、初めて来たらしい新しい物好きのサラリーマンのグループが入ってくると、ほとんどの場合、戸惑うようです。この店では(タイの方が運営されているほかのタイ料理店の多くでも同じようですが)、水を運んでくれるまで待っていれば注文できます。ところが、サラリーマン軍団の場合は、席に着いたとたんに、店の人を呼びつけないと気がすまないようです。しょっちゅう利用させていただいている(ために、時々コーヒーなどをサービスしていただけることもあって、宣伝させていただいている)私の印象としては、彼らはタイの人を低くみているのではないかと思うほど、店の人に対する態度が横柄のような気がします。

パリのカフェに詳しい人に聞いたのですが、パリのカフェでは、席に着いても、ウエイターがなかなか来ないことがよくあるそうです(昔は、ウエイターのことを英語のboyに当たるギャルソンと呼んでいたようですが、いまでは、ウエイターに来ていただくためには、普通の人と同じ、ムシューとかエクスキューズミーに相当する、エクスキュゼモアとか、ボンジュールと言うことが多いようで、ギャルソンと呼ぶことはほとんどなくなったそうです。英語圏でも、ウエイターをヘイ・ボーイなどと呼ぶと、とんでもないことになるようです)。そんなときに、無理に来てもらおうとするのは、あまりスマートなやり方とはされていないようです。その方によれば、忘れているのではないかと心配しても、そのうち必ず来てくれるそうです。忘れられているのではないから、安心して待つというのがマナーだそうです。ウエイターは職業人としての誇りを持っていますから、頭ごなしに呼びつけるというのは、失礼に当たり、ウエイターの都合の付くときに来ていただく、と考えた方がいいようです。そもそも、パリでは多くの人は、時間つぶしにカフェに入るため、待たされるのはあまり気にしないようです。また、急ぎの人は、カウンターで立ち飲みにするといいそうです。立ち飲みは、値段も3―4割安かったと思います。

・前から来る人を見ないで突進する人々・・・若い女性が大きなガラス窓の前を通るときは、窓に映った自分の姿を見ながら歩くため、前から来る人に気を使う余裕はあまりないようです。おばさん、おじさんの場合は、自分の進路は誰にも妨害させまいと、ひたすら直進しているような気がします。一番、危ないのが、これ見よがしに携帯電話でメールを打ちながら歩いている若者です。こうなると、自分のことしか頭にはなく、道路は自分のためにあると思っているとしか考えられません。

欧米では、前から人が来たときは、譲り合いになることが多いと思います。私の印象としては、欧米人は絶えず周りの人に親切にする機会をうかがっている感じです。ドアを通るとき、道路ですれ違うときなどに、なんとかして親切心を発揮しようとしている感じがします。ドアを通過したあとに、後ろの人が反動でドアと衝突しそうになったり、前から歩いてきた人の進路を自分が妨害する可能性などは全く配慮しないで、自分が一刻も早く目的地に着くことしか考えない社会と、いつも親切にする機会をうかがっている社会との間には、大きな差があると思います。この大きな差は、日本人が「ウチの者以外は人間にあらず」と考えているらしいことと関係があるのではないでしょうか。

なぜ欧米人がドアとか道路で人に親切にするかと考えると、これほど人と人が接近する機会はめったにないから、その機会を大切にしようという考えがあるのではないかと勝手に考えています。日本のことわざで言えば、「一期一会」(いちごいちえ、一生に一度あるあるかないかの機会)ということでしょう。例えば、上で触れた上司とはもう接点がなくなりましたが、その上司のことを考えると、何度か会議でお話ししたときのことよりも、わざわざ駆け戻って、ドアを押さえていただいたときのことをまず思い出します。こういうのを、再び日本のことわざでは、「情けは人のためならず」(なさけを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る、人に親切にしておけば、必ずよい報いがある)というのでしょう。逆に、目の前に別の人がいるのに、完全に無視するのが当たり前になっている、普通の日本人を昔の人が見たら「傍若無人(ぼうじゃくぶじん、「傍(かたわら)に人無きが若(ごと)し」、人前をはばからずに、勝手気ままにふるまうこと)」な人たちだと思うのではないでしょうか。



「シャンハイ、国民党(蒋政権)の末期、金が売出されたとき」、1949、アンリ・カルチエ・ブレッソン
(Henri Cartier-Bresson, Photo Poche #2)

(2002年6月27日)

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