問題83(メディア)の答え・・・放送の利用帯域当たりの電波利用料は、平均で携帯電話・PHSの約(b. 60分の1)と格安になっています。

放送会社が支払っている電波利用料は、帯域当たりでは携帯・PHS会社の62分の1で、おまけに、電波利用料の大半は地上波デジタル放送のために使われている

『電波利権』(池田信夫著、新潮新書、23―25ページ)によれば、携帯電話・PHS利用者は、利用可能な帯域全体の11%しか使っていないにもかかわらず、電波利用料全体の93.4%を支払っているのに対して、放送は、利用可能な帯域全体の8%と携帯電話・PHSの7割強の帯域を使っているにもかかわらず、電波利用料全体の1.1%(つまり6億円弱)しか支払っていません。このため、放送の帯域幅当たりの電波利用料は、携帯電話・PHSの約62分の1((11×1.1)÷(93.4×8))にすぎません。

電波利用料を売上高と比較してみると、携帯電話・PHSの2003年度の売上高(KDDIの資料による携帯電話3社の売上高とPHSの売上高のわたしの推定の合計)約8兆7,000億円に対する、電波利用料の比率は172分の1でした。これに対して、NHKと民間放送(民放)が支払っている6億円弱という金額は、2003年度のNHKの売上高(事業収入)の6,802億円、民放テレビ全国127局の売上高(営業収入)約2兆5,000億円の合計3兆2,000億円弱の5,400分の1にすぎません。このため、放送会社の売上高に対する電波利用料の比率は、携帯電話・PHSの売上高に対する比率の31分の1(172÷5,400)というより、売上高と比較するとほぼ無視できる金額であり、放送会社は事業運営にとって最も重要な「資源」をただで使っていることになります。

これだけ放送を優遇している上に、さらに驚くべきことに、電波利用料の大部分は地上デジタル放送の準備ために必要となる、放送局の放送設備のために使われているそうです。携帯電話会社も「携帯電話ユーザーの払った利用料がテレビ局のために使われるのは筋違いだ」と反対しているだけでなく、財務省も私有財産に国費を投入することに難色を示したのですが、「電波の有効利用をはかる」という、表向きの理由から、総務省はこの計画を推し進めているそうです(81ページ)。

地上波デジタル放送は、視聴者にはほとんどメリットがない、官僚、政治家、電機メーカーの金儲けのための時代錯誤的システム

放送会社と総務省は2011年に従来の(アナログ)テレビ放送を終了することが決まっているので、デジタルテレビを早く買うように国民をせき立てています。ところが、地上波デジタルテレビは、国民にとっては、新たな受像機を買わなければならなくなるだけでなく、番組の内容が格段に変わるわけでもないため、ほとんどメリットがないと思います。もっと問題なのは、放送会社と電機メーカーが出資している社員12人の「ビーエス・コンディショナルアクセスシステムズ」という会社が発行しているB-CASというカードを受像機に組み込まなければ受信できない仕組みになっているという点です。この会社は売上高が99億円、経常利益4億円と社員1人当たりでは3,300万円も稼いでいるそうです。このカードの読み取り装置も受像機に組み込む必要があるため、受像機の価格が割高になるだけでなく、この費用は受像機の価格に含まれるため視聴者が負担することになり(『週刊ポスト』2008年10月3日号、150ページ)、地上波デジタル放送はすべて実質的な有料放送になることになります。

放送局にとっても、NHK、民法あわせて中継設備だけで1兆円の投資が必要とみられる一方、放送をデジタル化しても、スポンサーからの広告収入が増えるわけではないため、全く割りの合わない(「コストが1兆円で収入増がゼロ」、『電波利権』の78ページ)システムということになります。民間放送の業界団体、日本民間放送連盟の前会長である氏家齊一郎氏は「地上デジタルは事業として成り立たない」と語っているそうです。それでも各放送局がデジタル化を進めているのは、「デジタル化を拒否すると放送免許が更新されないということを恐れて、放送局は総務省のいうことを聞いているにすぎない」(『電波利権』、84ページ)そうです。

新方式の放送で最大の恩恵を受けているのは、電機メーカーで、受像機、放送設備などの関連市場の市場規模は18兆円とみられているようです。ほかの自民党の政策同様、地上波デジタル放送を推し進めている総務省の天下り団体と政治家がこれら関連業界団体から甘い汁を吸っているという構図になっているようです(『週刊ポスト』2008年9月12日号によれば、地上波デジタル放送の予算は総務省だけで1兆3,800億円に達しているそうで、甘い汁を吸っている連中は「地デジマフィア」と呼ばれているそうです)。

これだけ問題のあるシステムを新聞が批判しないのは、新聞社は傘下に放送局を抱えている場合が多く、放送局に都合の悪いことは書けないというお家の事情があるためのようです。

急いで地上波デジタルテレビ受像機を買う必要はない

『電波利権』によると、技術的にみると、将来は、放送、音声通信、文書などの、あらゆる情報はインターネット・プロトコル(インターネットの通信方式でこれら情報のデータを細切れにして、一つのネットワーク上で伝送できる)を使って伝送される可能性が高いそうです。ところが、日本の地上波デジタルテレビの信号は、放送と通信の垣根を高くするために、わざわざ、インターネットに接続できない日本独特の方式で伝送されているため、データ放送の端末では、インターネットのホームページは見られないそうです。テレビに限らず、日本のシステムは何でも国内でしか通用しないことを、業界では動物が独自の進化をとげたため、ダーウインの進化論の根拠とされた島の名前を使って、「ガラパゴス状態」と言うようです。地上波デジタルテレビも、ほかの多くの日本独自のシステム同様、絶滅が危惧されるのではないかという気がします。

さらに同書によれば、アナログ波放送を2011年に終了させるのは不可能とみられるため、地上波デジタルテレビの受像機を急いで買う必要はないようです(下に『電波利権』の83―84ページから関連部分を引用させていただきます)。

・・・2011年にテレビを100%デジタル対応にすることは不可能だ。かつてカラー放送が始まってから、白黒放送をやめるまでに、25年かかった。アナログテレビのように広く普及したサービスをやめることは容易ではないのである。/しかもデジタルテレビを買えないのは、高齢者や低所得者などの「社会的弱者」が多いから、電波を止めてそういう人々の楽しみを奪うことは政治的に困難だろう。現実には、「暫定措置」として2016年くらいまでアナログ放送が延長されるのではないかというのが業界関係者の観測だ。・・・・・10年後を考えてみたとき、映像の大部分はインターネットで配信されているかもしれない。そういう時代に放送免許を持っていることにどれほどの資産価値があるのだろうか。まして、使うかどうかも疑わしい中継設備に投資することが賢明なのか。それは、10年がかりで建造して完成したときに時代遅れになっていた戦艦大和のような存在になるのではないか。/テレビ業界が「大艦巨砲主義」に固執して赤字を出すのは自業自得だが、そんな時代錯誤のために1億台ものテレビを粗大ゴミにするのはやめてほしいものだ。

20世紀は放送の世紀だったが、21世紀はインターネットの世紀

視聴者にとってのテレビ放送の問題点は、選択肢が限られているうえ、内容が画一的であるという点です。例えば、外出する前に、テレビで天気予報を見ようとすると、天気予報の時間まで待たなければないだけでなく、ほとんどの場合には、自分の住んでいるところの天気だけが分かればいいのにもかかわらず、北海道から沖縄までの天気予報を聞かされるため、かなり時間が無駄になります。これに対して、Yahooなどの天気予報では、好きなときに、好きな場所の予報を調べることができます。

ニュース番組にしても、NHKでは、総合テレビ、衛星テレビで(ラジオの第一放送とFM放送でも)ほとんど同じ内容のニュースを流していますし、ほかの放送局のニュースも似たり寄ったりの内容のようです。しかも、そのニュースの内容は、政府・お役所・大企業に都合のいいものが多く、独自取材は少ないという感じがします(
NHK教育TVの特集番組「問われる戦時性暴力」という、従軍慰安婦問題を扱った番組が、安倍晋三元首相や中川昭一現財務大臣の圧力で、大幅に内容を修正し、しかもこの程度の修正は通常の編集であることをNHKも認めていることについては、『NHKが平壌放送になった日』でもご紹介しました)。ただ最近では、主要なニュースは、各放送局のホームページで、動画を見ることできるようになってきました。インターネットのニュースの動画だと、必要なニュースだけを見ることができるため、時間の節約になります。さらに、ウォール・ストリート・ジャーナルのホームページのように、海外の新聞のサイトでも、本格的な動画の番組も見ることができるようになってきました。

テレビ番組の中で最悪なのが、バラエティー番組で、娯楽性があるのみで、これら番組は、国民の目を重要な問題からそらすためにあるような気がします。社会評論家の故大宅壮一(おおやそういち)氏(評論家の大宅映子氏の父上)は、「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」、「テレビの普及は「1億総白痴化」につながる」(
「白痴」(はくち)は知能が著しく劣っていることを指し、「記者ハンドブック」によれば、通常は「知的障害」という言葉に言い換えるべき言葉ですが、この場合は決まった言い方であるため、そのまま使いました)という意味のことを、約50年前に書かれたようですが、大宅氏の予想は見事当たってしまったようです。

テレビを見るということは、ある意味では、放送局に頭を預けるみたいな面があると思います。テレビのスイッチをいったん入れると、なかなかやめることができなくなり、徐々にテレビに支配されるようになり、テレビの勧めるものを買い、食べ、飲み、テレビの勧める考え方に従って考えるようになる傾向があると思います。放送局が自民党政権の下で、巨大化したのは、利権が絡んでいるという面のほかに、テレビが国民を無知な状態に保つための強力な武器となってきたという面も強いと思います。

これに対して、インターネットは、テレビと同じような放送機能も持ちうるだけでなく、YouTubeの出現によって、好きな動画を好きなときに見られるれるようになりつつあります。そのため、20世紀にテレビが果たしていた役割の大半は、インターネットによって、はるかに効率的に置き換えが可能となるとみられ、パソコンが使えなければならないとか、高速回線が必要であるなどの制約はありますが、5年、10年単位で見れば、放送はインターネットによって置き換わることになる可能性が高く、放送局は情報提供者の一つにすぎなくなるとみられます。これは国民が自ら情報を選択し、自由意志によって判断できるようになるためには、有益ですが、国民を無知な状態に保つ武器を失いたくない政府は、必死にこの流れに抵抗していて、その動きの中心となっているのが、「大艦巨砲主義」の地上波デジタル放送ではないかと思います(2008年9月29日)。

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