寺田寅彦 てらだ・とらひこ(1878—1935)


 

本名=寺田寅彦(てらだ・とらひこ)
明治11年11月28日—昭和10年12月31日 
享年57歳 ❖寅彦忌
高知県高知市東久万王子谷 寺田家墓地 



物理学者・随筆家。東京生。東京帝国大学卒。旧制第五高等学校(現・熊本大学)在学中に夏目漱石と知己を得る。大正5年東京帝国大学教授。「天災は忘れたころにやってくる」の有名な警句を残し、『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルといわれている。優れた随筆家としても知られる。『橡の実』『藪柑子集』などがある。



 



 出口のほうへと崖の下をあるく。なんの見るものもない。後ろで妻が「おや、どんぐりが」と不意に大きな声をして、道わきの落ち葉の中へはいって行く。なるほど、落ち葉に交じって無数のどんぐりが、凍てた崖下の 土にころがっている。妻はそこへしゃがんで熱心に拾いはじめる。見るまに左の手のひらにいっぱいになる。余も一つ二つ拾って向こうの便所の屋根へ投げると、カラカラところがって向こう側へ落ちる。妻は帯の間からハンケチを取り出して膝の上へ広げ、熱心に拾い集める。「もう大概にしないか、ばかだな」と 言ってみたが、なかなかやめそうもないから便所へはいる。出て見るとまだ拾っている。「いったいそんなに拾って、どうしようと言うのだ」と聞くと、おもしろそうに笑いながら、「だって拾うのがおもしろいじゃありませんか」と言う。ハンケチにいっぱい拾って包んでだいじそうに縛っているから、もうよすかと思 うと、今度は「あなたのハンケチも貸してちょうだい」と言う。とうとう余のハンケチにも何合かのどんぐりを満たして「もうよしてよ、帰りましょう」とどこまでもいい気な事をいう。
 どんぐりを拾って喜んだ妻も今はない。お墓の土には苔の花がなんべんか咲いた。山にはどんぐりも落ちれば、鵯の鳴く音に落ち葉が降る。ことしの二月、あけて六つになる忘れ形身のみつ坊をつれて、この植物園へ遊びに来て、昔ながらのどんぐりを拾わせた。こんな些細な事にまで、遺伝というようなものがあるものだか、みつ坊は非常におもしろがった。五つ六つ拾うごとに、息をはずませて余のそばへ飛んで来て、余の帽子の中へひろげたハンケチへ投げ込む。だんだん得物の増して行くのをのぞき込んで、頬を赤くしてうれしそうな溶けそうな顔をする。争われぬ母の面影がこの無邪気な顔のどこかのすみからチラリとのぞいて、うすれかかった昔の記憶を呼び返す。「おとうさん、大きなどんぐり、こいもこいもこいもこいもこいもみんな大きなどんぐり」と小さい泥だらけの指先で帽子の中に累々としたどんぐりの頭を一つ一つ突っつく。「大きいどんぐり、ちいちゃいどんぐり、みいんな利口などんぐりちゃん」と出たらめの 唱歌のようなものを歌って飛び飛びしながらまた拾い始める。余はその罪のない横顔をじっと見入って、亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりのすきな事も折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである。

(団栗)



 

 熊本の第五高等学校(現・熊本大学)に入学して、英語教師として赴任してきた夏目漱石と出会うのだが、漱石が数多いる門下生の中で唯一畏敬していたといわれるのが寺田寅彦だった。
 寅彦には三人の妻がいた。最初の妻夏子は14歳、寅彦19歳での結婚であったが、肺結核におかされた夏子の療養のため別居を余儀なくされた末、一子をのこして死別、二番目の妻寛子とは四人の子をもうけたのだが、やはり肺結核で失っている。そして三人目の妻となった紳子は、17年あまりをともに暮らしたが、昭和10年12月31日午後0時28分、20数年も前、漱石が胃潰瘍で死んだ頃からの胃病を源とする転移性骨腫瘍によって床についた寅彦の死を看取ることになった。



 

 12月中旬、寅彦の祥月命日には少しばかり早かったのだが、かつては一面の田畑であった周辺も新しい住宅地と変わってしまった高知市郊外の久万山裾、畑地脇の竹林にかこまれた急な山道をのぼっていく。朝方の雨も上がって、若干の陽も差している閑とした寺田家墓地。土庭の上に枯れ落ち葉は舞い、寅彦が幾たびも踏んだであろう古苔をいま私も踏みしめている。
 奥から父利正、母亀、寅彦、夏子、寛子、紳と南面した碑が横一列に並び、葉を散らした山桜の枝ごしに遠く高知城が霞んで見える。みかんとお榊、菊、百合が供えられ、小宮豊隆の撰を刻した墓誌を碑の左右裏面に配した「正一位・勲二等 寺田寅彦之墓」、冬日は強く、ときおり吹き降りてくる風が厳かな墓域を竹葉のざわめきで満たしていくのだった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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