龍膽寺 雄 りゅうたんじ・ゆう(1901—1992)


 

本名=橋詰 雄(はしづめ・ゆう)
明治34年4月27日—平成4年6月3日 
享年91歳 
神奈川県厚木市上古沢1152 厚木霊園特A7区1側19番
 



小説家。千葉県生。慶應義塾大学中退。昭和3年『改造』懸賞小説に『放浪時代』が入選。5年「新興芸術派倶楽部」を結成。モダニズム作家として活躍したが、9年以後文壇を去った。戦後『不死鳥』などを発表。サボテンの栽培・研究家としても知られる。『十九の夏』『街のナンセンス』などがある。






 

 人間は誰だって、大なり小なり色んな才能や天分をもっている。いわばそれらは火をともさない蝋燭だ。
迂闊に生活を選んだら、人間は墓穴に這入る時にも.まだ心の白い蝋燭を幾本も、そのまま使い残さなければならない。何と不経済な話だ! そうだ。俺は俺の才能のあらゆる蝋燭に、たとえ小指の頭ほどの、小っぼけなかけらでもいい、赫々とみんな心に火をともし並べて、俺の人生をお祭りの夜のように、明るく賑やかに闇に照り輝かして、そうして死んで行こう。蝋燭が残らず燃えきったあと、冷えかたまった蝋涙だらけの闇が落ちたら、いや、これこそ言葉通り、死出の闇路という奴だ。

(M・子への遺書)

 


 

 後年は『シャボテン幻想』などを著し、サボテン研究やそのコレクターとしての方が高名であったが、昭和3年、『改造』懸賞小説に『放浪時代』が一等に入選して佐藤春夫、谷崎潤一郎らに激賞されて以来、『アパートの女たちと僕と』など瑞々しい都会小説を発表してきた。しかし当時文壇に横行していた代作(自身も川端康成の代作をしたことがあった)や派閥性などの腐敗に手厳しい批判を加えた作品『M・子への遺書』によって文壇の地位を急速に失ってしまった。
 文壇人の打算と虚栄を批判し、距離を置いた龍膽寺雄にとって、平成4年6月3日朝5時、心不全により91歳で亡くなるまでの悠々とした人生に何の後悔があろう。
 〈青春は白髪の中に在り〉。



 

 丹沢山懐、バス停の金網に熊注意、猿注意、鹿注意などと注意看板が掲げてある。
 霊園の送迎バスに乗って野焼きの煙が立ちのぼる村落に分け入っていく。ジグザグの道筋、冬のやわらかな陽差しは山襞にふき溜まって穏やかな楽園を浮かび上がらせていた。「橋詰家墓」、薄赤御影横型洋墓の裏面に「平成三年橋詰雄建之」の刻がある。墓誌には橋詰雄、平成15年、雄と同じく91歳で亡くなった妻まさの名が。
 〈社会を厳しく批判したり、霊魂の奥底を厳粛に解剖したりすることを、唯一の崇高な天職と心得ている小説家も、生活の内幕へ這入るとこのていたらくだ。要するに誰も自分にとって都合のわるいことだけは、絶対に批判も解剖もしないのだ〉と糾弾された文壇もこの聖域からなお遥かに遠い。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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