野溝七生子 のみぞ・なおこ(1897—1987)


 

本名=野溝ナオ(のみぞ・なお)
明治30年1月2日—昭和62年2月12日 
享年90歳(麗峯院文藻美妙芳薫大姉)
神奈川県横浜市戸塚区汲沢4丁目32–6 宝寿院(真言宗)



小説家・近代文学研究家。兵庫県生。東洋大学卒。大正13年『山梔』が福岡日日新聞懸賞小説特選となる。昭和3年長谷川時雨の「女人芸術」に参加。15年『女獣心理』、21年短編集『南天屋敷』などを刊行。短篇集『月影』『ヌマ叔母さん』などがある。






 

 京子や緑や、母や、その他の誰もとひとしく、阿字子は、阿字子の過去が堆積した阿字子なのである。その道程の凡てが許されて、どうして現在の姿の、凡てが許され得ないのであらうか。阿字子は無意識に此所まで歩いて来たのではなかったか。-----もし無意識と云ふ言葉がこんな意味に用ゐられることを許されるなら。----阿字子は、凡てを意識した。しかし凡てを意識しなかつた。殊に斯かる歩み方を意識しなかった。阿字子は、こんなものだとは教へられないで、これがわからないかと、怒鳴りつけられてゐるのである。阿字子は、自分の中に生きて来た少女である。種々な意味で教へられた。しかし、真実の意味では少しも教へられてはゐない。阿字子は、白分の経験と実感とからのみ教へられて、他人の何等の掣肘も受けてはゐるのではなかった。阿字子は、打たれて育って来た少女であり、どんなに尠く打たれるかといふことをのみ考へて来た少女である。彼女の知識も、その感情の深さ広さには、決して及ぶ筈のない只、それにのみ忠実に、それにのみ支配され、それの奴隷であり、それの主人である所の少女である。
                                          
(山梔)



 

 前日の気温はそれほど寒くはなかったが、風の強い朝だった。昭和62年2月13日、朝日新聞の死亡欄に小さな記事が載った。
 〈野溝七生子さん(のみぞ・なおこ=作家、元東洋大学文学部教授、本名ナオ)十二日午前七時三十三分、急性心不全のため、東京都西多摩郡瑞穂町の仁友病院で死去、九十歳。葬儀・告別式は十四日午後一時から横浜市戸塚区汲沢四ノ三二ノ六、宝寿院で。喪主は甥で宝寿院住職の野溝良尊(りょうそん)氏。大正十二年、福岡日日新聞の懸賞小説に応募した『山梔(くちなし)』で特選入賞して文壇デビュー、代表作に『女獣心理』など。比較文学による森鴎外の研究もある〉——。
 係累を斥け、孤高に生き、孤高に死んだ作家の最後の一行であるのか。始まりの一行であるのか。



 

 野溝七生子の甥が住職をつとめるという横浜西郊外の宝寿院。境内の墓域には銀杏の大木がある。所々に石段を設えた参り道が山裾を一気にのぼっていく。ありふれた形状の墓碑が途切れたあたり、すっくりと伸び始めた野草の茂みの中から小さな小さな観音菩薩像が顔を覗かせている。ふと、一匹の蝶も飛んできて、しばしの空想は幼き日の野辺の詩歌へと昇華していった。
 菩薩像の光背左右に七生子と鎌田敬止の戒名、麗峯院文藻美妙芳薫大姉、高岳院文苑風流敬止居士の文字が読み取れる。共に一屋に暮らした年月、離ればなれになった年月、それらを思うといい知れぬ感慨が襲ってはくるが、物語の完結はついにはやって来ない。ただ快い時間が流れていく。永くもなく短くもなく。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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