逸見猶吉 へんみ・ゆうきち(1907—1946)


 

本名=大野四郎(おおの・しろう)
明治40年9月9日—昭和21年5月17日 
享年38歳(長安道猶信士)
東京都北区滝野川3丁目88–17 金剛寺(真言宗)



詩人。栃木県生。早稲田大学卒。昭和4年草野心平の詩誌『学校』に参加、『学校詩集』に連作詩『ウルトラマリン』を発表し、注目を浴びる。10年『歴程』創刊に参加、12年満州に渡る。15年「日本詩人協会」に参加。21年長春で病死。没後、遺稿詩集『逸見猶吉詩集』が刊行された。






  

ソノ時オレハ歩イテヰタ ソノ時
外套ハ枝ニ吊ラレテアツタカ 白樺ノヂツニ白イ
ソレダケガケワシイ 冬ノマン中デ 野ツ原デ
ソレガ如何シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ
〈血ヲナガス北方 ココイラ グングン 密度ノ深クナル
 北方 ドコカラモ離レテ 荒涼タル ウルトラマリンノ底ノ方ヘ―――〉
暗クナリ暗クナツテ 黒イ頭巾カラ舌ヲダシテ
ヤタラ 羽搏イテヰル不明ノ顔々 ソレハ目ニ見エナイ狂気カラ転落スル 鴉ト時間ト アトハ
サガレンノ青褪メタ肋骨ト ソノ時 オレハヒドク
凶ヤナ笑ヒデアツタラウ ソシテ 泥炭デアルカ
馬デアルカ 地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ 君モシルワヅカニ一点ノ黒イモノダ
風ニハ沿海州ノ錆ビ蝕サル気配ガツヨク浸ミコンデ 
野ツ原ノ涯ハ監獄ダ 歪ンダ屋根ノ 下ハ重ク 鉄柵ノ海ニホトンド何モ見エナイ
絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト 大キナ苦痛ノ割レ目デアツタ
苦痛ニヤラレ ヤガテ霙トナル冷タイ風ニ晒サレテ
アラユル地点カラ標的ニサレタオレダ
アノ強暴ナ羽搏キ ソレガ最後ノ幻覚デアツタラウカ
弾創ハスデニ弾創トシテ生キテユクノカ
オレノ肉体ヲ塗抹スル ソレガ悪徳ノ展望デアツタカ
アア 夢ノイツサイノ後退スル中ニ トホク烽火ノアガル 嬰児ノ天ニアガル
タダヨフ無限ノ反抗ノ中ニ
ソノ時オレハ歩イテヰタ
ソノ時オレハ歯ヲ剥キダシテヰタ
愛情ニカカルコトナク ※漫スル怖ロシイ痴呆ノ底ニ
オレノヤリキレナイ
イツサイノ中ニ オレハ見タ
悪シキ感傷トレイタン無頼ノ生活ヲ
アゴヲシヤクルヒトリノ囚人 ソノオレヲ視ル嗤ヒヲ
スベテ痩セタ肉体ノ影ニ潜ンデルモノ
ツネニサビシイ悪ノ起源ニホカナラヌソレラヲ
〈ドコカラモ離レテ荒涼タル北方ノ顔々 ウルトラマリンノスルドイ目付
 ウルトラマリンノ底ノ方ヘ―――〉
イカナル真理モ 風物モ ソノ他ナニガ近寄ルモノゾ
今トナツテ オレハ堕チユク海ノ動静ヲ知ルノダ
                        
(報告・ウルトラマリン第一)



 

 栃木県下都賀郡谷中村(現・栃木市)、足尾銅山鉱毒のため渡良瀬川岸最後の村として全村立ち退きの命を受けたこの村に、明治40年9月、『ウルトラマリン』の詩人は生まれた。
 〈二十世紀は詩が死にかかつてゐる。歌つてゐるうちに睡くなつてきた類であらう。それなのに肉体を消耗することさへしない、己の肉体を消耗するとは己に最も直接なモラルを触火せしめることだ。それなくしてどんな詩の飛翔もありはしないのだ。詩人はまつたく怠屈すぎる〉。
 〈苦痛ニヤラレ ヤガテ霙トナル冷タイ風ニ晒サレテアラユル地点カラ標的ニサレタオレダ〉。
 終戦翌年の昭和21年5月17日、満州国長春(現・中国長春市)郊外の自宅で、肺結核と栄養失調の末、詩人は死んだ。


 

 音無川の渓流にそって整備された緑陰の涼しい遊歩道がつづいて、ひっきりなしに野鳥のさえずりが聞こえてくる。
 紅葉橋の袂にある金剛寺、別名紅葉寺。溶岩塊にのせられた自然石の台座のまた上にある「大野家之墓」は大正8年に父東一が建てた。墓の裏面に谷中村以来の墓誌が綴られている。強い朝の陽を背面から浴びて碑は重力を失い宙空に浮いているようだ。
 渡良瀬遊水池、水底に沈んだ旧谷中村共同墓地の慰霊碑の傍らに草野心平の書になる『報告(ウルトラマリン第一)』の一節が刻された猶吉の詩碑がある。遺族によって建立されたこの碑には〈我等の父母並びに姉と兄此処に眠る〉と添記されていると聞くが、紅葉寺から分骨されてあるのだろうか。
 私はいまだ訪れる機会がない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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