本名=五味欣一(ごみ・きんいち)
大正10年12月20日—昭和55年4月1日
享年58歳
神奈川県鎌倉市山ノ内8 建長寺回春院(臨済宗)
小説家。大阪府生。明治大学中退。短編小説『喪神』で昭和27年度芥川賞を受賞。以後時代小説を多く書き〈剣豪小説〉作家として評価された。『二人の武蔵』『薄桜記』『柳生武芸帳』などを発表した。また音楽評論でも著名で、『西方の音』『音楽巡礼』などがある。

幻雲斎は併し、別に木太刀を採って技を授けたわけではない。降れば庵にあり、照れば谷を渉ること、彼への態度も今迄と同様てある。が、折ふし、機を捉えてはこういうことを教えた。---夢想剣を修めるには、世の修業の考えを先ず捨てねばならぬ。従来の剣術の方法、思慮では奥義を極めることは出来ない。肝要なのは、人間本然の性に戻ることである。即ち、食する時は美味を欲し、不快あらば露わに眉を寄せ、時に淫美し、斯くの如く、凡そ本能の赴くところを歪めてはならぬ。世に、邪念というものはない。強いて求むれば、克己、犠牲の類こそそれてある。愛しえぬ者は憎むがよい、飢えれば人を斃しても己が糧を求むるがよい。守るべきは己が本能である。欲望を、真に本来の欲望そのものの状態にあらしめることである。---
(喪 神)
音楽評論家吉田秀和が、〈奇蹟のような出来栄えの音楽〉と評し、〈ベートーヴェンのすべてのピアノ曲中第一である〉と断言したベートーヴェンのピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111、多才な着流しの剣豪作家が最後に聞いたレコードである。
肺がんに冒され、東京逓信病院の一室で涙しながら聞いたこの曲は、剣と西洋音楽という奇妙な取り合わせに通じたこの作家の、求道的な精神に清々と響きわたったことだろう。
5か月間の闘病の末、五味康祐は昭和55年4月1日春のこの日、午後6時5分に永の眠りに就いた。
——五味康祐(ごみ・やすすけ)通称康祐(こうすけ)の本名は自筆年譜にも記されていないが、明治大学専門部文芸科本科に入学した時の記録によれば「五味欣一」となっている。
鎌倉五山の建長寺大伽藍をやり過ごし、半僧坊への道を右の谷筋に折れ、寒椿の咲く坂道をのぼると風が切れた。ぴーひゅるる、ぴーひゅる、ぴーひゅるる、トンビが舞っているらしい。色彩を失った冬の塋域はかすんでいる。
葛西善蔵の墓もある塔頭回春院、本堂前には大亀が住んでいるという伝説の大覚池がある。
56歳の時、〈私は観相をするが、多分じぶんは58で死ぬだろうと思う〉と予言した通りの結末となってしまった。「五味康祐之墓」に花はない。
「五味一刀斎」とか「五味の柳生か柳生の五味か」あるいは「オーディオの神様」と異名された五味康祐。剣豪小説のヒントを得たといわれるドビュッシーやラフマニノフ、モーツアルトの音楽が、この碑の底には流れているのかも知れない。
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