馬場孤蝶 ばば・こちょう(1869—1940)                       


 

本名=馬場勝弥(ばば・かつや)
明治2年11月8日(新暦12月10日)—昭和15年6月22日  
享年70歳 
東京都台東区谷中7丁目5–24 谷中霊園乙10号5側3番 




英文学者・随筆家・翻訳家。土佐藩(高知県)生。明治学院卒。英語教師をへて、明治30年日本銀行に9年間勤め、39年〜昭和5年慶應義塾大学教授として英文学を講じた。学生時代、北村透谷らの雑誌『文学界』に参加、詩作をするとともに、トルストイの『戦争と平和』、ホメロス『イリアッド』を翻訳。『明治文壇の人々』『葉巻のけむり』などがある。







  

 蝶よ、美はしき蝶よ、汝も亦此の詩人の如きか、汝の双翼の美は、返へりて汝の仇なりき。されど、汝は或者の犠牲たる可き命運の内に生れ出たり。汝は悲しき最期に出會はざるを得じ。思ヘ、秋風吹き盡くして、菊枯れ、霜多き朝、汝は花なき野末に枯死するを楽むか。我むしろ汝が猶、青々たる秋艸の内に斃れて、希望ある此秋の初に逝きしを喜ぶ。我は猶、汝が前生の毛虫の如く、憎を以て殺されざるを喜ぶ。我は又人の為めに愛せられ、人の為めに喜ばれたる汝が生涯を祝す。世には何の咎むべきなきも、只其形の醜悪なるをもて其の生命を失ふ蛇の如きもの少なしとせず。汝は猶此の如き薄遇には陥らざりし。喜ぶぺきかな。
 争ひ難きは命運の歸する所か、我等は神と争ふを得可し、されど、定まりし此の天地の形勢を如何にすべき。我等は只怨みつゝ死すべきか。鳴呼汝も我も共に此れ神の為めに祭壇に焼かるゝ小羊の命運を有するものなり、汝は我に先んじて我等が最後の如何に悲しきかを示したり。悼むぺきかな。
                              
(蝶を葬むるの辞)



 

 明治27年3月、26歳(満24歳)の時に初めて樋口一葉宅を訪問したと年譜にはあるが、一葉が下谷龍泉寺町(現・台東区竜泉)から本郷区丸山福山町(現・文京区西片)に引っ越したのは5月であったから、この時の訪問は龍泉寺町であったのだろうか。1年余りの間に同人誌『文学界』の面々としばしば訪れたようであったが、28年秋に滋賀県彦根に学校教師として赴任したため疎遠になった。
 東京に帰ってきたのは一葉が死んだ翌年の30年。〈悲歌慷慨の士なりとか、嬉しき人なり〉と一葉日記にも記された馬場孤蝶の人柄は、公明正大で竹を割ったような気性であったとか。孤蝶は昭和15年6月22日、肝臓がんに腹膜炎を併発し、渋谷区松濤町五番地(現・神山町13–8)の自宅で70年の生涯を閉じた。



 

 明治37年4月、斎藤緑雨が死去。死に際して緑雨から託された一葉の日記は、45年に馬場孤蝶編纂による二冊本の大著『一葉全集』に加えられて博文館から刊行された。
 上野の森背後の霊域に林立する蒼然とした墓群は、それぞれの時代に消え去ろうとしているが、明治を飛び出し、平成の蒼穹に確固とした軌跡を描かんと、飛翔の準備を終えた「馬場孤蝶之墓」と、明治21年、38歳の時に米国フィラデルフィアで客死した畏兄「馬場辰猪之墓」は大空に向かって深呼吸をしている。碑影は力強く、くっきりとした先鋭を持って此の聖地を指す。紅色を帯びた土埃がひと舞いしたと思ったら、薄っぺらな白雲が急に動き出した。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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