究極の問題。

究極の問題を、よく考える。

人間の思考に言葉は必要ないから、実際の思考時間は3秒もかかっていないのかもしれないけれど、それを言葉に表そうと思うとその何百倍もの時間を要してしまう。
コンピュータと同様に、アウトプットが常にボトルネックになるのだ。
それは同時に思考がソフトウェアであって、言語がハードウェアだと云うことの証明でもある。まぁ、その話は別の機会に(アメリカンジョーク)。

究極の問題は色々あるけれども、一番多く考えるのが自殺の肯定だ。
自殺を肯定するのか。
この時点で既に自殺の否定は否定されている。
つまり、僕はそこまで傲慢にはなれない。ということだ。
以前「自殺はいけません」という人物と会話をするきっかけを得たのは僕にとっては幸運だったけれども、それは予想通り、他人の人生にまで口を出す傲慢さ以外は何も持ち合わせていない、つまり何も得るもののなかった邂逅だった。

人生は全てバランスによって成り立っているのだと思う。
未来にはあまねく全ての可能性があるけれども、人は無意識にその可能性を篩にかけて判断をしているのだ。
林檎の皮をむいているとき、そのナイフを首に刺せばいつでも死ぬことができる。
それをしないのは、林檎の皮をむくことが死を選ぶことよりも重要だというだけのことなのだから。

逆に言えば。
自殺を選ぶ人は、想像できる限りの自分の未来よりも、死を選んだ方が楽だ。と考えているからに他ならない。
そんな人に向かって「自殺はいけません」「未来を捨ててはいけません」などと、どうして声を大にして云えるのだろうか。
未来とは死にも勝る恐怖の対象なのだ。
たぶん、自殺を否定する人はインドの農村で栄養失調にかかっている子供たちの前にいても「全ての子供には幸せになる権利がある」「親は子供を幸せにする義務がある」と、堂々と云ってみせるのだろう。
自分のみ来全てと交換に死を選んだ人に対して「自殺はいけません」などと云うことは、その人の未来、人生全てを否定することと何ら変わりがない。
つまり、僕はそこまで傲慢にはなれない。ということだ。

もちろん、僕の目の前で死のうとしている人がいたら「僕の目の前では死なないでくれ」と云うだろう。
友達が死のうとしていたら「僕は君が死んだら嫌だ」と云うだろう。
一般論と現実の違いはそこにある。
ただ、僕は無自覚的に傲慢にはなれない。
そういうことです。

back next home