三国志〜魏書〜武帝紀
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◆◆◆概要◆◆◆
●武帝紀
 武帝(曹操)については、あまり星の記述はないようです。 献帝が曹陽で破れた時に、侍従が曹操を頼るべきだと星の話を持ち出す所があります。
◆◆◆太白と鎮星◆◆◆
●正志の記述(注1:P33)
 過ぎし春より、太白(金星)が牛斗(牽牛星と北斗星)のあたりで鎮星(土星)を犯し、 天津(天の川に横たわる九つ星)を通過しました。
●太白と鎮星
太白と鎮星  これは建安元年(196)年の記述の中の注として書いてある部分です。 過ぎし春ですから前に遡りますと、確かに牛宿で195年12/1〜12/3に金星が土星に接近します。 おひつじ座付近ですね。ただし「犯」には少々距離が離れています。

 【】書きで牽牛とありますが、現在で言うわし座のアルタイル(彦星)ではなく、 中国星座の二十八宿の牛宿です。

牛斗の「斗」は、場所が南のおひつじ座付近ですので、北の北斗七星ではあまりに広範囲に なってしまいますので、恐らく南斗(いて座の南斗六星)である斗宿の事でありましょう。

斗  次いで195年2月10日(興平2年正月中)に「犯=0.6度」以下となります。 過ぎし春と言う表現が当てはまりますね。(南極老人星さん訂正感謝)

 但し場所的には反対の西側に位置してしまいますが、逃げる途中船に乗ろうかとする時 ですので、「過ぎし日」と年月日を特定していなかったり、場所が多少違うのは 記憶で話していたからでしょうね。

●鎮星が天津を通過
 これは少々無理があります。天津はこぎつね座付近ですので、天の川の中にありますが、 黄道からは大きく外れ鎮星(土星)は通りません。侍従があんまり詳しくないか、 、記憶違いか、状況からして慌てていたかでしょうね。
◆◆◆熒惑(ケイワク)の留◆◆◆
●正史の記述(P33続き)
 「熒惑はまた逆行して北河(ホクガ:天の川に横たわる九つ星)にじっと留まっておりまして、 犯すことができません。」その結果天子はけっきょく北方に渡らず、軹関(しかん)から 東に出ようとした。
●火星は順行のみ
火星は順行 確かに火星は徐々に北河(ふたご座の上半身)まで近づきますが、逆行したり、 留になったりすることはないですね。

 留になるのは翌年AD197年3月17日頃。で火星食が起きるようですね。 ここで地球が火星に追いつくので、今度は逆行しますね。

 ちょっと時期的に食い違いが出ますね・・・

◆◆◆火と土◆◆◆
●正史の記述(P33-34別の者に)
 先に太白(金星)が天関(おうし座付近)でじっと動かず、熒惑(火星)と 出会いました。金と火が交わりあうのは天命の改まる証拠です。漢の命運は尽きましょう。 晋・魏に興隆する者があるに違いありません。

●太白と熒惑の出会い
太白と熒惑  確かに金星と火星はおうし座で接近します。

これは直近の事であるようなので間違いは無いです。晋書 によれば太白が西に出れば 蛮族が負け、東にでれば中国が負ける。

・・・確かに東に出てますね(^^;)


●正史の記述(P33-34別の者に)
 王立はのちにたびたび帝に進言した、「天命には去就があり、五行が常時栄える わけではありません。火に代わるものは土、漢を継承するものは魏、天下を安定できるのは 曹姓です。ひとえに曹氏をご委任下さい。」
●火に代わるものは土
 ・・・これがさっぱり、わからんでんねん(^^;)

 メモ書き程度はしておきましょう。

 王朝が交代する時に、正月を循環させた[三正論]があって・・・ってなんじゃらほい?
 それと鄒衍の五行相勝論により年始を改め、朝賀は10月朔よりした(史記:始皇帝本紀)」

 五行相勝論だと土(黄帝)→木(夏)→金(殷)→火(周)→水(秦)か。そんでそりゃ〜何時までも無理だ ってんで賈逵らが観測でやれっていうんだ。弘農で掘り出せる賈逵の事かな・・?

 土・木・金・火・水って順番が逆さまだな。なるほど前漢の董仲舒が逆さまにしたんだ。 えっと木・火・土・金・水の順序。つまり火の次は土。じゃあ秦の次の漢がなんで火なの?? ふむ董仲舒のおっさん調べないとわかんないや。

 行き着くと逆周りでもさせないとな・・・でも循環しないと五行じゃないし。・・・ 王朝の数え方でも変えたのかな、きっと。

参考文献

●漢字
熒惑(けいわく)のケイ
軹関(しかん)のシ
●参考・引用文献
  • 正史三国志1魏書I・ちくま学芸文庫(注1:斜体文字引用)
  • 中国の科学・中央公論社
  • 中国占星術の世界・橋本敬造著・東方書店
  • when
  • ステラVer5
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