Koshimizu tougen
2015年12月23日 20:17

    − 暗黒へ羽ばたけ −
アオサギ
 漆黒の闇が全ての本源なのだ。燦然たる輝きは一瞬にも満たなく無と同様である。

 光を遮り、人は目を閉じる。闇を見るために。闇こそ命を育むものの存在であり、
帰するべきところと知るために。

 過去も現在も未来も闇の中にあって解け合う。生あるもの、そして生なきものと見なされるものも含め
全ての境目をなくす。

 どこまでも入れ子の仕組みで向かうミクロの宇宙、そして同様に際限なく逆入れ子に拡大するマクロの宇宙、
いずれでも“光”は真の暗闇の中にあり、取るに足りない邪鬼の住処としての存在なのだ。
 闇は生を問わず死を問わず万象を生み出す。

 が、闇に満ちたままでよいものを、小賢しくも“光あれ”と叫んだものあり。
そのものこそが所詮あらゆるものを強欲にも支配し本来から遮断するものなり。
自己を省察し本源を尋ねるものを捻じ曲げ、難癖をつけて従わせるものなのだ。

 命を受けたものは本来自由な生を享受するのであり、更にその死からさえもまぬがれている。
何ゆえにわざわざ天国や地獄を、極楽浄土やそして阿鼻叫喚の巷を捏ち上げなければならないのか。
それは光の下、跳梁跋扈する輩が奸策を弄し他者を従わせ偏に強欲を際限なく満たすための方策なのだ。

 極大の極小の宇宙の中心から途轍もなく外れた矮小の光の中に命の本源を閉じこめられ、
自由を奪われ、自らが支配者たらんとする横暴ものの奸策にはまっている。

 とるに足りない光をも包容する暗黒、静寂と時の遍満の暗黒、永遠が一瞬、一瞬が永遠となり、
無限大であると同時に無限小の空間をもって漲る暗黒、
それは生きるものに死するものに在り。

 そして何よりも、闇の片隅に捨てられた猥雑の光が消失したとしても
闇は更にその存在を増すばかりで、排泄物としての光などには無頓着なのだ。
 闇は闇自身を濃くするばかり。

 が、光のために少しく付け加える。
太初光は闇の栄光を称え、暗黒を際立たせ、そして自らの豊饒を看る為であったのだ。
 が、声高に話すもの現れて後、掃き溜めと化した。

 真なるもの善なるもの美なるもの、それはまさしく暗黒が体現する。
 暗黒から生じて暗黒へと戻る。須臾の光は隷従の日々となり、
暗黒を善とせず悪と手なずけられて暗黒との感応は断ち切られている。

 それこそギリシャ神話の神々のごとくにオリンポスの高見から下界を覗いてみたらよい。
観察し得るのは殺戮の場であり止むことのなき争いの場と化していることが見て取れる。
 それが“光あれ”の実態なのだ。

 暗闇はただ真善美を体現し黙然とするのみ。暗黒はすべての源泉。
真の知性を持ちすべからくミクロとマクロの宇宙をつかさどる、それが暗黒。
 陽かがやく場をみているだけでは、五里霧中。暗黒こそ生あるもの死せるものの帰すべき在り処なのだ。

 圧倒的なミクロとマクロの闇の時は、
流れもせず滞りもしない、ただあまねく満ちているだけだ。

 そう、我々人間は本来小分けできない遍満し存在する時を恣意的に切り刻むことで時を知る。
数えることの不可能な時を数え、落ち着くことなくわが身を切り刻み、とどのつまりが無駄死に或いは行き倒れとなる。

 突然変異的に光の世界に生あるものとして放置される身は光に目くらましをされ、彷徨い始める。
まるで乳飲み子が乳首をまさぐるように。
 が、生あるうちに探しきれなくとも、いずれ死を介して親を見出す。

 “どうせ死ぬのになぜ生きる”との疑問はわが身を突き刺すのに向けるのではなく、
“光あれ”と吐いたものに投げ付けたらよい。
そしてそのものが好む木に竹を接ぐ屁理屈、甘言、脅迫などの手管には、
断じてこの様に応じるがよい、“真は端から死んでる”のだと。
 そして、余計な口出しは無用だ、と。

 死んでから死ぬか、死ぬ前に死ぬか。生あるものは死ぬ前に死し、“暗黒”に帰す。

 今、求めるものは帰すべき自由なる暗黒に向かって羽ばたく。


   
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