生活の豊かさは何で決まるか

生活というのは身体の世話をすることである。身体にとって必要なモノは限られているから、生活の豊かさは物の量では測れない。生活の豊かさは、身体の必要を満たすまでは量の問題だが、それから先はの問題になる。ものごとの量を測るのはわりと簡単だが、質を測るのはすごく難しい。量は一元的な価値だが、質は多様な価値観の統合によって生じるものだからだ。質というのは、そこに表現された価値観の数で決まるのだ。多様な価値観を統合するのは創造であり、量を追求することよりもずっと難しい。

多様な価値観を身に付けるためには、日常生活において多様な価値観を統合する必要がある。日常生活と関係のない価値観は「身に付けた」とは言えないからだ。豊かな生活とは多様な価値観の統合された生活である。多様といっても、統合されているのだからシンプルなはずである。いろんな物を持っているよりも、ひとつの物をいろんなことに使う方が価値観が統合されているといえるし、その方が創造的だ。

創造というのは無から有を生み出すことではない。絵を描くことは絵の具を生み出すことではないし、文章を書くのは言葉を作ることではない。創造とは、既にあるものを組み合わせることである。その組み合わせ方によって価値観の統合を表現するのだ。価値観は自分の中に「何となく」ある。自分の中になんとなくあるものを想像し、それを現実の何かに置き換えて表現するわけだから、創造とは比喩である。

現代人は想像が苦手である。想像するには頭の中に余白が必要だが、現代人の頭の中には言葉が詰まっていて余白があまりない。頭の中の余白が多ければお気楽だが、言葉が余白を埋めてしまう。余白は言葉にすると「ゼロ」であり、ゼロはいくら大きくてもゼロなので、余白の大きさは言葉で直接表現することができない。だから、余白を表現するには何かに置き換えるしかないのである。

創造には想像が必要だから、創造性の度合いは「どれだけ大きな余白を表現できるか」で決まる。余白が大きければ、空白というべきかもしれない。現代社会で暮らすためには多くの言葉が必要なので余白は少ない。日常生活で何かを表現することができたら、暮らすために必要な言葉が少し減り、余白が少し増える。そうやって余白がだんだん増えると生活が豊かになる。頭の中に空白があるとマヌケに見えたりするが、そんなことを気にしてはイケナイのである。