自分の心をつかむ方法

近代は頭の時代だ。「アタマで考えることに価値がある」という思想が社会全体に広まっていくのが近代化である。だから、近代社会では身体を動かしてカラダで考えることは軽視される。身体を動かすことに価値がないということになったら、身体を動かすのは面倒くさくなる。面倒くさいからといって、カラダで考えるということをしないと、自分の身体の感じがつかめなくなる。自分の身体の感じがつかめなければ、自分の「」もつかめない。

心というのは自分の身体の状態が変化する時に感じられるものなので、身体を軽視する近代化が進めば心も軽視され、その結果、心はよく分からないものになる。最近は、近代化という「アタマで考えるブーム」がやっと終わりかけて、「心の時代」などと言われるようになってきた。心の時代とは、心が話題になる時代である。心が話題になるのは、心というのがよく分からないからだ。

「心は脳内の電気パルスに過ぎない」と言う人もいる。では、どうやったら「いい具合に」その電気パルスが出て、その結果として、自分のやりたいことをやって暮らしたり社会問題を解決したりできるのか。「ナニナニに過ぎない」などと否定的にものを言っても、そういう現実の役には立たない。心はナニナニに過ぎないと言っている人は、結局「心についてはよくわからないから、考えたくない」ということの言い訳をしているだけである。

問題は「心とは何か」ではなく「どうすれば、気分良く暮らせるか」である。気分良く暮らすには、自分のやりたいことをやれば良い。やりたいことについて考えると、何となく心が動くものである。自分の心の動きがつかめないと、自分のやりたいことは分からない。自分の心の動きをつかむには、身体を動かさなくてはならない。あるいは、身体を動かすことを想像するのでも良いはずだ。しかし、慣れた動きを繰り返しても、あまり身体の状態は変化しないので、心も動かない。心を動かすには、今までと違った身体の動きを探す必要がある。

自分が慣れていない身体の動かし方のネタは、日常生活の中にいくらでもある。家事はだいたい面倒くさい。面倒くさいのは、まだ慣れていないからである。つまり、日常生活の家事や雑用をやればいいのだ。やっていると、自分にとってやりやすい方法が見つかる。やりやすい方法を見つけて身体で覚えると、面倒ではなくなってくる。やりやすい方法を発見するのは面白いし、自分で発見した方法でやると気分がいい。

そういうことを続けていると、身体を使うことの何が面白くて、どういう風に身体を使うと気分がいいのかがカラダで分かる。面白いとか気分がいいという感覚がカラダで分かれば、自分のやりたいこともだんだん分かるようになる。「やりたいこと」というのは、身体を通じて日常生活に繋がっているのだ。日常生活とか家事というのは、やりたいことの源である身体のお世話をすることなのである。

「やりたい」というのは、心の動きである。やりたいことをやって気分良く暮らせたら、心の動きをちゃんとつかんでいることになるから、心をそれ以上分析する必要はない。そもそも、心というのはよく分からないもので、よく分からないなりに「やりたい」という方向性だけがあるのだ。我々がやりたいことというのは、よく分からないからこそやりたいのである。よく分からないのにやろうとするのは、それが自分の身体から出てきたものだからだ。

 → 心は錯覚か