汝自身を知れ

イチローは「プロとして大切なことは何ですか?」と聞かれて「自分を知ることです」と答えているが、自分を知るというのは難しい作業だ。自分を知ろうとすると、つい「自分とは何か」と考えてしまいがちである。「考える」というのは頭の中で物事を単純化して捉える作業で、「知る」というのは自分の考えと現実との違いを捉える作業である。考えるのと知るのは全然違うのだ。

自分を知るには、自分を表現する必要がある。自分を知ろうと思ったら、何とかして自分を現実の世界に表さなくてはならない。表現というのは行動だ。自分を知ろうなどと考えていると自意識過剰になって行動はギクシャクしてしまう。自分を知るということを考えずに行動しなければうまく自分を表現することができない。つまり、行動に集中するのが大切なのである。「自分とは何か」などと考えなければ集中しやすいし、うまく集中できるとそんなことは気にならないものである。

集中して行動し、後で自分が何をしたかを詳細に想い出せば、自分を知ることができる。村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル(第3部)」で、笠原メイが「(カツラを作る工場での)作業に集中すればするほど自分自身に近づいているような気がする」と言っているのも同じことだろう。ここで大事なのは、笠原メイは手先が器用でその作業が得意だということである。自分自身というのは自分の得意な行動に集中することで現れるものなのだ。

そうやって自分を知ることができたとしても、その自分というのはあまり大したものではない。我々は自分が素晴らしいものであるかのように考える傾向があるが、その考えと現実との違いを捉えるのが「自分を知る」ということである。そんな現実は知りたくないものだ。だから、自分を知るのは難しいのである。しかし、自分を知るのは大切だ。大したことのない自分をしっかりと認識すると、ちょっとはマシな自分になれる可能性がある。