自分の言葉で語ろう

自分の言葉で語るのはとても大事なことである。自分の言葉で語らないでいると、何か得なことはあるかもしれないが、すごく消耗するのだ。気楽に暮らすためには自分の言葉で語る必要がある。自分の言葉とはいっても、自分で勝手にコトバを作り出したのでは他人には通じない。自分の言葉で語るというのは、みんなと共有できる言葉を使って自分の考えを語ることである。自分の言葉で語るためには、まず自分なりの考えがなくてはならない。自分なりの考えというものがあれば、何をどのように語っても自分の言葉で語ったことになる。

自分なりの考えというのは「誰もが認める正解」ではないから、自分の言葉で語ったことが他人に受け入れられるとは限らない。「誰もが認める正解」を多くの人が共有している場合、そこで「自分なりの考え」を語ると異端者になる。自分の言葉で語る人は異端者であり、異端者は自分の言葉で語ることができるのだ。「誰もが認める正解」が確固としている時代には自分の言葉を語るのは異端だが、最近は「誰もが認める正解」などというものがあまり役に立たない。これからは、多様価値観が必要である。つまりみんなが異端者になる必要があるのだ。

「誰もが認める正解」というのが役に立たなくなると、誰もが何をどうすればいいのかわからなくなる。そうなったら、誰もが自分のやりたいことをやるしかない。自分のやりたいことをやると「自分なりの考え」が生じて異端者になる。異端者は孤独だ。異端になるのは勇気がいる。異端になるのがイヤなら自分の言葉で語ることはできない。自分の言葉で語らない場合、我々は何を語っているのだろうか。それは自分なりの考えではないわけだから、他人から教わった考えである。つまり、みんなが認める正解をマジメに勉強すると自分の言葉は失われるのである。

自分のやりたいことをやるには異端になる勇気がいるのだが、みんなが自分のやりたいことをやればみんなが異端になる。みんなが異端であるというのは、誰も異端ではないのと同じだ。「誰もが認める正解はもうない」ということがハッキリすれば、自分のやりたいことをやるのを恐れることはない。そして「誰もが認める正解はもうない」ということはもうハッキリしている。問題は「自分のやりたいことは何か」ということである。

自分の言葉で語る人はものごとを身体で理解している。身体で理解していることは主観である。頭で理解している言葉は客観的情報だから自分の言葉ではない。勉強するだけでは語れない。勉強しなくても語ることはできる。なるべく自分の身体を使うようにすると、自分の言葉で語ることができるようになる。自分の言葉で語ることができるというのは、自分が何をやりたいかがわかるということである。自分の言葉で語るために必要なことは、自分の身体を使って生活することである。生活感のない人が頭だけで考えてエラそうなことを言っても、自分の言葉で語ったことにはならない。