不快感を減らす方法

現実のものごとは、我々にとって快かったり不快だったりする。どちらを経験したいかというと、快いことに決まっている。不快なことはあまり経験したくないものである。それで、我々は快いことを求めるのだが、何か快いことがあったとしても、慣れるとあまり快くなくなったりする。快いことに慣れると、その快さに対して鈍感になってしまうのである。それが飽きるということだ。そして、快いことに慣れると、不快なことは余計にイヤになる。つまり、不快なことに敏感になる。不快なことを避けて快いことばかり求めていると、快いことには飽きて不快なことには慣れないから、現実のものごと全てが不快になっていくのだ。

20世紀は「便利」や「快適」という価値を追求する時代であり、社会が近代化するのに伴って、便利で快適になっていくのが当り前だった。しかし、便利で快適なだけの生活をしていると、生きている実感がなくなる。それでも、近代化が進んでいくうちは「もっと便利で快適なものごと」というのが次々に現れるので、何とか新鮮な気分になることもできた。しかし、もう充分に便利で快適になり、これ以上「もっと便利で快適なものごと」なんてなかなか思いつけなくなってしまった。

我々は快適さに慣れたので、快さに対しては鈍感で、不快に対しては敏感なのだ。それで、みんなが「生きている実感」を失い、社会全体に不快感ばかりが満ちているわけである。そうなってしまったのは、我々が快い世界を求めてきたからだ。最初は快いことでも、慣れると快くなくなる。それはものごとの性質が変化したのではなく、我々の感じ方が変化しただけだ。だとすると、不快感を減らすには、不快に対して鈍感になればいい。そのためには、快より不快に慣れる必要がある。

快不快は身体で感じるものだが、便利とか快適というのは「身体の機能を使わずに暮らす」という方向の価値観である。我々はあまり身体を使わないから、自分の身体の機能に自信がなくて、ちょっとのことが面倒で不快なのだ。不便とか不快というのは、実は「それを受け入れる自信がない」ということである。自分なりのやり方が身につけば、手間のかかることほど楽しいし、ちょっとくらいの環境の変化は楽しみとして受け入れることもできるのだ。

多少の不便や不快は、楽しむ気持ちになれば慣れることができる。不快に慣れると、快いことに敏感になる。不快なことをポジティブに捉えると、不快感が減って現実のいろんなものごとが快く感じられるのである。理屈ではそういうことになるが、不快なものは不快だからやりたくない。不快な現実を乗り越えるには、それなりの理由がいる。

我々が不快なものごとをガマンする理由は、「そうしないと酷い目にあうから」か「それをやるといいことがあるから」のどちらかである。快適さに慣れて鈍感になるような状況では、何かをガマンしないと酷い目にあうということはあまりない。だとすると、不快に耐える理由は「何かいいことのため」以外に見つからない。では、その「いいこと」とは何だろうか。快適に慣れてしまった人間にとっての「いいこと」というのは、「快適なこと」ではなく「ちょっと不快な部分もあるけど、面白いこと」である。

不快なことを避けて快適に暮らしていると、快適なはずなのに不快になるのである。それはやりたいことをやっていないからだ。やりたいことをやり続けるには、現実の不快な部分もポジティブに捉える必要がある。そうすると、不快に慣れる。したがって、みんながやりたいことをやるようになると、社会全体に広がる不快感は減るはずである。