地道な努力が必要なわけ

才能の本質は感覚である。「優れた感覚」という才能をストレートに出そうとすると「あれはいい、これはダメ」という風に偉そうな表現になる。その感覚は優れているのだから「あれはいい」が少なくて「これはダメ」が多くなるが、そんな偉そうなことを言っても、なかなか他人には受け入れられない。そんなに偉いつもりなら自分でやってみろ、ということになる。しかし、そんな偉そうなことを言っているうちは、自分ではできないのである。

才能は誰にでもあるので、才能があるというだけでは全然偉くない。自分は偉くないというところから、地道な努力が始まる。自分は偉いと思っていたら、自分が変わるための努力なんかしない。自分で何かをやるために努力をした人は、「自分は偉くない」というところから出発したのだから、何かができるようになったからといって「自分は偉い」と思ったりしない。自分は偉いと思ったら終わりである。

何かの感覚が優れているとしたら、他人のやることが気に入らなくて「もっとこうすればいいのに」などと正しいやり方を思いついたりする。ところが、自分でやってみるとうまくいかない。うまくいかないので「自分は感覚は優れているけど、実践的な才能はないんだな」と思ってしまう。しかし、それは誰にでも言えることである。全ての赤ん坊は感覚が優れていて実践的な能力は何もない。実践的な能力は生まれつきの才能じゃなくて、後天的な努力によって身に付けるものなのである。

感覚は他人から見えない。他人が見るのは実行能力であり、実行能力は努力の結果だから、他人からは才能は見えないということになる。実行能力で判断すると自分の才能も見えなくなる。表現能力は努力によって身につけるもので、その努力に方向性を与えるのが感覚である。しかし、その感覚は、自分の努力に対して「これはダメだ」とばかり言うのである。感覚の方が実行能力より先天的に優れているのだから仕方がない。やりたいことをやるのは、自分の感覚を満足させる何かを生み出すためである。