Automatic

身体で覚えるというのは、自動的にできるようになることである。いろいろ苦労しながらどうにかできるようなことを何度もやっていると、いつの間にか何も考えなくてもできるようになる。何も考えなくてもできるのは、頭で考える代わりに身体が勝手に考えるようになるからだ。何も考えなくてもできるとしたら、他のことを考えながらでもできることになる。つまり、頭で考えながら苦労してやっていたことを身体で覚えてしまうと、その分だけ頭の中に余白ができて頭が自由になるのだ。なるべく苦労せずにいようとすると、いつまでたっても頭が自由にならない。

何かを身体で覚えると頭は自由になるが、頭で覚えるとどうなるだろう。何かを勉強して頭で覚えると、覚えた通りにしか考えられないようになって頭が固くなる。それに、頭でものを覚えると、頭の中の余白がどんどん減っていくから、頭が自由じゃなくなる。頭でものを覚えれば覚えるほど、自分の頭で考えるということが難しくなるのである。

生き物の本質は「自動性」である。身体で覚えたことが自動的にできるようになるのは、我々が生命として持っている能力だ。身体で覚えるのがメンドクサイからといって、いろんな作業を機械に任せていくと、我々は身体機能を発揮できなくなる。そうやって、身体を使わずにいると、自分のやりたいことがわからなくなる。やりたいことというのは、生き物としての身体から自動的に出てくるものだから、頭で考えてもわからないのである。

自分のやりたいことが何なのかは、身体で考えなければわからないが、身体を野放しにしてもダメである。身体がやることは自動的なので、やらずにいるということができない。やらずにいられないことは自分の意志でやりたいことだとは言えないのだ。やりたいことの源は生命性だが、やらずにいられるという自由さに意識性が現れる。意識性は非生命性だとも言えるが、やりたいことをやるためには、我々の中にある生命性と意識性の両方が必要なのである。