習うより慣れよう

慣れるというのは状況や動作を身体で覚えることである。身体は繰り返し経験したことを自動的に覚えてしまう。何かを身体で覚える場合、その何かを繰り返すのは意識的な作業でも、繰り返したことを「身体で覚える」という部分は自動的である。だから、何かを身体で覚えたい時は「身体で覚えよう」と意識して頑張る必要はなくて、覚えたいことを落ち着いて繰り返せばいいのである。でも、その「繰り返す」というのが面倒くさい。

身体で覚えることは感覚と運動に分けられる。感覚というのは世界から我々に対する情報の入力で、運動は出力だ。面倒なのは出力の方である。感覚に対する入力の方は、自分の周りの世界からやってくる情報を待っていればいいが、世界に対して何かを繰り返し出力するのは面倒だ。出力は面倒だから我々は受動的になりがちである。

感覚を通じて入力される情報を繰り返し受け入れていると、自分の周りの世界に感覚が慣れる。感覚が慣れるのは「麻痺する」ということで、世界に対して鈍感になり物事に飽きるということである。受動的な態度でいると、そのうちに何もかもつまらなくなってしまうのだ。そうならないためには、能動的になる必要がある。

能動的になるとは「自分でやる」ということである。何かをやるのは周りの世界に対する出力である。意識的に「表現しよう」としなくても、何かを自分でやれば「表現」をしたことになる。何かを繰り返しやっていると、その行動に慣れる。行動に慣れるのは「自分なりのやり方が見つかった」ということだ。行動に慣れても「飽きてつまらなくなる」ことはあるが、自分のやり方を見つけるには時間がかかる。自分でやるのは面倒くさいが、面倒くさいことはなかなか飽きないし、飽きた時には自分なりのやり方が身に付いている。

「身体で覚えたこと」を別の言葉でいうと「技能」だ。身体で覚えるのが自動的であるのと同様に、身体で覚えた技能を発揮するのも自動的である。だから、身に付いた技能を発揮する時には、アタマの中を空っぽにした方がうまくいく。意識的にやらなけらばうまくいかないことは、まだ身に付いていないのだともいえる。アタマを空にすると、身体で覚えたことがスムーズに出てくる。つまり、自分なりの表現ができる。自分なりの表現ができれば、物事は大体うまくいく。アタマの中が空っぽでも物事がうまくいけば、お気楽だ。