女戦士の里として名を馳せた銅の谷は、エイオン峡谷の中の、ごく小さな自治領である。 傭兵を生業とした武人の一族で、大半が成人すると谷から出て行く。 谷に残るのは、老人と修行中の子供、谷の聖域を守る祭司、産み月を控え子供を産むために故郷に戻った女達である。 男は、いない。 男が生まれれば、その日のうちに、谷の外へ出される掟だった。 聖域たる聖洞に入ると、高い天窓から、幾筋もの光が降り注いでいる。 小さな影が、無人の広間を横切った。 聖洞の中は、迷宮の様相を呈している。 暗く果てのしれない無数の通路が、祭司の数ほども有る修行の場や、さらに神聖な秘儀が行われる巨 大な地下空間を結んでいるのだ。 本来なら、谷人が、祭司の先導もなく聖洞に入ることはない。 だが、不可解な衝動が、幼いアレクシアを、支配していた。 華やかな彩色を施された通廊を通り抜け、何のためらいもなく、休む事もなく、地下深くへ下る。 やがて、空気は冷えて、凍りつくようになった。 祝詞を唱える祭司達の気配は、もはや遠く、かすかなものとなる。 子供の足音だけが、軽快に響いていた。 この辺りには、もう誰もいないのだろうか。 そんなはずはない。 誰かが、呼んだのだ。 琥珀の瞳が苛立ち、幼さに似合わぬ険しい光を帯びた。 名が判れば、呼びかけられるものを…… そう思った途端、声にならない悲鳴が聞こえた。 アレクシアは、聖域への配慮を捨てて駆け出す。 自分の苛立ちが、相手を脅えさせてしまったのだ。 声なき声の主を求めて走った。 通廊の果てで、淡い色調の帳を透かし、仄かな明かりが漏れている。 アレクシアの小さな手が、乱暴な仕草で紗の帳を跳ね上げた。 燭台が一つ置かれただけの、仄暗い闇の中、香炉から立ちのぼる淡い緑の煙が揺れる。 銅の谷の子供は、美しく設えられた調度の向こうに、天蓋から流れ落ちるうすぎぬに包まれた褥を、そして、その中にうずくまる小さな人影を見つけた。 今度は、そっと、帳を開く。 琥珀の目が、大きく見開かれた。 そこにいたのは、まだ幼い祭司だった。 アレクシアより、少し年上の少女。 その髪は、銅の谷の一族特有の赤銅ではなく、漆黒だった。 だが、そんなことより信じがたかったのは、祭司が脅えていることだった。 脅えて泣くこともできず、ただ、底の知れない黒い瞳を潤ませているのだ。 しかも、彼女が脅えているのは、アレクシアに対して、なのである。 「どうして……」 それしか、言葉にならない。 アレクシアは、まだ四年しか生きていない。 誰かに、脅えられたことなどない。 まして大人に……アレクシアは、自分より大きな少女を、当然大人だと判別していた。 こんなに華奢で心弱い存在は、見たことがなかった。 銅の谷は、女丈夫達の一族だ。 祭司は心が強く、戦士は力も強い。 自分より小さな子供に脅えるなど、信じられるものではない。 何故、私に脅えるのですか。 貴方を守りたいのに、愛しているのに。 貴方の微笑みが、見たいのに…… 頭に浮かんだのは、別人のような、また不思議なほど、大人びた思惟だった。 そして、そのまま、アレクシアの心と、ふわりと重なり溶け合った。 怖がらないで……貴方を守るために来たのに… しかし、幼い谷人には、それを自分の言葉に置き換えられない。 どうしてよいか分からず、もどかしげに、祭司へ腕を延ばした。 捕まえないと、闇に溶けてしまいそうだった。 背の高い寝台へ身を乗り出した拍子に、足元が疎かになった。 帳のたっぷりした布に足を取られ、頭から寝台に倒れ込む。 幼児は、柔らかな布の海でもがき、打った鼻を押さえながら顔を上げた。 漆黒の髪の少女と目があう。 見ている方が苦しくなるような脅えが、消えていた。 心持ち首を傾げて、幼い闖入者を見つめている。 震えを帯びた細い声が、囁いた。 「貴方は、誰?」 「アレク。祭司様は?」 子供は、心から嬉しそうに、笑顔を返した。 大きな琥珀の瞳が、祭司を真っすぐに見つめている。 漆黒の祭司は、ためらいがちに名乗った。 「私は、アシェイルと呼ばれています」 アレクシアは、頷いて、大人たちがするように正式に呼びかけた。 「祭司アシェイル。御用はなんですか」 アシェイルは、驚いたように目をみはる。 小さな谷人は、生真面目な顔で繰り返した。 「呼んだでしょう?」 祭司の蒼白の頬を、涙が伝った。 「兄様を呼んだの。お父様とお母様と…兄様を…」 アレクシアは、すすり泣く祭司を前にして、途方に暮れた。 では、この祭司は、銅の谷の血族ではないのだ。 銅の谷の血族ならば、兄や父を想って泣くことなどあるはずがない。 父親を知るものは少なく、男の兄弟があっても、その存在を知ることもなく、共に暮らすこともない。 一族にとって、男の親族は、ないも同然なのだから。 この華奢な儚げな少女は、祭司としての才を持つために、攫われてきたのだろう。 アレクシアは、腕を延ばして、祭司の黒髪に触れた。 宥めるようとして、そっと撫でる。 貴方は、私を呼んだのに、私がいるのに、私を見てくれない。 また、自分のものでない思惟が浮かび、胸に溶ける。 アレクシアは、違和感を覚え混乱した。 しばらく考えて、その中に、自分の想いとぴったり重なるものを見つける。 泣いている祭司に、何かしてあげたい。 泣かないで欲しい。 顔を上げて、笑い掛けて欲しい…… 幼い腕が、漆黒の祭司の華奢な肩に回された。 精一杯の力で、抱き締める。 そうして、幼さ故に思うように操れない言葉ではなく、自分の心をそのまま差し出した。 腕の中の祭司が、儚げな肢体を震わせる。 異邦の少女は、痛みを覚えるほどに、真っすぐな憧憬と敬愛を、守護の誓いを受け取った。 「アレク…」 「はい」 アシェイルが、ためらいがちに名を呼ぶと、少しきつい感じの琥珀の眼差しが、嬉しそうに応える。 琥珀だった。 「貴方が、入って来たとき、大人の男の人だと思ったの。瞳の色が、髪と同じ赤銅で……」 アレクシアは、入り口を振り返ってから、不思議そうに頭を振った。 ここに来たのは、呼ばれたのは自分だけだ。 それに、谷には、女しかいない。 アシェイルは、もう一つ、本当に小さな声で尋ねた。 「アレク、女の子なの?」 子供達が、歓声を上げて駈けて行く。 彼らは、いまだ祭司長の託宣を受けてはおらず、祭司になるために祝詞を学ぶことも、戦士になるための鍛練も始めていない。 聖洞の入り口で、すれ違う丈高い年長の同胞の一団から、陽気な叱責が飛んだ。 「ちびども。転ぶなよ。その儀式の服は、やわだぞ」 「浮かれてると、託宣のお預けを喰らうぞ」 ある満月の夜の事である。 銅の谷の新たな戦士たちは成年の儀礼を済ませ、旅立ちの祝福を得た。 入れ替わりに、六歳になり、祭司長の託宣を受ける子供達が、聖洞へ入って行く。 子供達は、今宵、自分の運命を知る。 祭司となり、聖洞で銅の谷の女神に仕えるか。 戦士となり、外界の戦場で戦い、やがて子供を生むか。 そのどちらになるのかを、祭司長の託宣によって定められるのである。 谷の新たな戦士ソディシアは、同胞の肩を叩いた。 「今年は、祭司が何人出るかな」 「さぁて。それより、あれが、祭司に選ばれないよう、祈るばかりだな」 「そうだよな。あれだよな」 何人かが、話に乗って来た。 「そう、あれが、ぴらぴらした祭司の装束を着たとこなんか、見たくないよな」 「えー。そうかぁ。それよか、戦士になって、子供を産むことの方が、想像できない……」 「言えるかも。私らの方が、ましだよな」 銅の谷の若い戦士たちは、何とも言いがたい表情で頷きあった。 彼らは、一族の常で、硬質の容貌を持ち、大柄で、一五という年齢より、ずっと年かさに見える。 遠目にみれば屈強の青年の一団だが、実は少女達なのだ。 谷の外の者から見れば、どう違うのか、首を傾げるだろうが、彼女たちは、自分たちが男に見える以上に、男の子にしか見えない年少の同胞についての話で盛り上がっていた。 「アレクが、祭司なら、私は、絶対谷に戻らんぞ」 「そこまで、いうかぁ」 「でも、同感……」 「でも、でも、戦士になったって、いずれ交配期で、子供産むわけだろ。そんなの見たくないぞ」 「あ、でも相手の顔は、見たいな」 「やっぱり、男かなぁ」 「女で、どうするんだ。似合うけど」 少女達は、残らず爆笑の渦に巻き込まれた。 「洞中に響いているぞ、お前たち……」 笑いを含んだ声が、聖洞から聞こえた。 若い戦士たちが、思わず口を押さえる。 程なく、胸も腰も豊かに成熟した年長の戦士が現れた。 谷に帰り子供を産み、そのまま子供達の剣術の師としてとどまったサイリアは、咎めるような眼差しで弟子達を見た。 だが、口元には微笑がある。 「師匠」 ソディシアは、意を決して尋ねた。 「結果は?」 サイリアは、片方の眉を引き上げた。 「アレクシアか?戦士じゃなかったよ」 悲鳴が上がる。 ソディシアは、師匠が、いたずらな目をしているのを、見逃さなかった。 皆のざわめきに、負けぬように、声をはりあげて聞く。 「それでは、祭司に?」 「その才もあった。……が、」 「……が?」 一同は、速やかに沈黙した。 「聖洞騎士の才もあったので、そちらを選んだ」 歓声が上がった。 「やった。ぴらぴらなし!」 「谷から、出ないんだから、当然、子供なし!」 「聖洞騎士がでるのって十年ぶりか、すごい」 「いいなぁ。あれの正装ってかっこいいんだよな。黒と緋だぜぇ」 「九年後の成年の儀礼が、楽しみだな」 筒抜けだった。 琥珀の瞳をもった子供は、唇を噛み締める。 年若い祭司達は、震える口元を袖で覆った。 老祭司長アグリスなどは、隠しもせず、意地の悪い笑いを見せる。 せめてもは、共に託宣を受ける同胞が、儀式の緊張のあまり、何も分からぬ様子だったことだ。 託宣の場では、何事もないように儀式が進められている。 アレクシアは、腹に力を入れて表情を殺した。 祭司から、聖洞騎士見習いとしての剣を受ける。 稀なる才を持った子供の眼差しは、儀式の介添えをした祭司が、たじろぐほど、険しいものだった。 鋭い舌打ちとともに、少女にしては低い声が言う。 「長引いたな。くだらないことで笑っているからだ」 介添えの祭司パティスは、驚いてたしなめようとした。 「アレクシア。何です」 跪いていた少女は、儀式の手順を無視して立ち上がった。 アレクシアは、そのとき六才だったが、谷人の常で、その倍の年にも見える。 年長の同胞の言う通り、少女らしい愛らしさはもとより、子供らしいあどけなさすら、かけらもなかった。 「祭司長アグリス」 聖洞騎士見習いの不遜な呼びかけに、その場にいた全員が、息を呑んだ。 老女が、笑っていた表情を引き締める。 祭司達の頂点に立つアグリスは、同時に、銅の谷の一族の束ねだった。 吐息とともに、嗄れた声が広間へ響いた。 「聖洞騎士見習いアレクシア。儀式を滞らせるか」 「聖洞騎士見習い故に、そうします」 アレクシアは、祭司長に目礼すると、そのまま、老女の背後に控える祭司の列へ向かった。 呆然と見守る一同の前で、聖洞騎士見習いは、最も年若い祭司へ微笑みかけた。 「我慢することはない」 漆黒の髪と瞳を持つ祭司は、その守護者の腕に抱き取られた。 血の気のなくなった頬は、いつにもまして蒼白だったが、かすかに微笑む。 守護者は、アシェイルより年下で、背もまだ少し低かった。 だが、彼女を抱く腕は、揺るぎもせず強い。 「祭司アシェイルは、体調が悪い。寝所にお送りします。よろしいか。祭司長アグリス」 老祭司長は、黙って頷く。 儀式杖で床を突き、息を呑んでいた者を我に返した。 「託宣の儀を続ける」 サイリアは、首を振って唸った。 「誰が、あんなマネ、教えたんだか……」 ソディシアは、しみじみ、ため息をついた。 「誰も教えてないから、怖いんですよ。師匠。アレクは、本当に女なんですか」 「お前ら、水浴びの度、確認してたろうが。谷に男はいないんだよ」 聖洞の入り口から様子を伺っていた戦士たちは、つめていた息を吐き出す。 祭司長に物を言うのは、度胸がいる。 しかも、儀式の最中だ。 「思いきりいいなあ」 「美少女を、抱き上げる美少年の図…にしか見えない」 「聖洞騎士か。危ない選択かもな。祭司の姐御達は、あーゆーの、好きだからなぁ」 「おとなしく、祭司の玩具になる奴じゃないよ」 「ま、アシェイル以外、目に入ってないな」 「あ、ちょっと、うっとり……」 「こら、こら、こら…」 どっと起こったこりない爆笑を、未来の聖洞騎士が聞かなかったのは、双方にとって幸いだった。 このとき、琥珀の瞳の子供が、谷の始祖、半神の器であることを知る者は、『冥』の祭主アシェイルと、祭司長アグリスのみである。 朝の日差しが、天幕に差し込んでいる。 アレクシアは、瞬きをした。 一五のとき成年の儀式で、誓いとして切り落とした髪は、その後の四年で、腰を越えるほど長く伸びた。 起き上がって、髪を纏める。 油断していると、人の髪をかき回すのが癖になっている奴が、くしゃくしゃにしてくれるのだ。 すぐそばで、健康的な寝息が、規則正しく聞こえた。 見る度に、鼻をつまんでやりたくなる。平和な寝顔だった。 アシェイルと同じ見事な漆黒の髪と瞳を持つ、全然似てない従兄弟。 今は、どう見ても男にしか見えないが、初めてあったときは、少女の姿だった。 アレクシアは、苦笑した。 一五までは、単純に生きて来られたが、その先の人生は、どうにも想像できないものだった。 祭主の才があり、聖洞騎士の才があり、聖洞騎士として誓いを立てたものを、復讐の剣として祖父の首をはねる為に谷を出て 戦士として生き、半神の祭主を努め、結局、己の祭主を失った。 そして、その後は… 「アレク?」 「ああ、起きたか。早く身支度しておけ。シュエが、来るぞ」 アシェイルの従兄弟は、野放図な伸びをすると、人懐こい笑顔を見せた。 アレクが放り投げた上着を、受け取り言った。 「アレクは、女の子には気を使うな。あれ、好みか」 「シュエは、元気がいい。かわいいが、どっちかというと、もう少し、女らしい華奢な儚げな風情がいい」 青年は、屈託なく頷いた。 「アレクと、儚げな美女ね。うっとりな図だよな」 「お前は?」 「俺も似たようなものかな。もっとも、分不相応だったか、ふられたけどさ。幼なじみで、小さいころ貧相だった俺より華奢で、息をつめて気をつけないと、ちょっとの事で泣きそうになるくらい、こう、儚げなかわいい子で……」 「それは、わかるな。息をつめるくらいでないと、壊してしまいそうになる」 「そう。それ。アレクもか。何だ。何か一つぐらいは、趣味が合うもんだな」 明るい笑い声が、天幕の外まで聞こえた。 声をかけそびれたシュエは、頭を抱えそうになった。 女の趣味で一致して意気投合した若者達は、恋人同士のはずなのだ。 もちろん、男女の。 本人達も、一応、疑問は持っていた。 「それで、何で、私なんだ」 「アレク、俺…男だよ?」 銅の谷の最後の聖洞騎士は、誰にも思いもよらぬ運命を辿り、最期に子供をもうけた。 それは、初めて己の祭主を見いだした日、聖洞騎士の見習いとして剣を受け、『冥』の祭主を抱き上げた日、聖洞騎士となり谷を失った日、少女の姿をした悪党と出会った日にすら、思いもよらない運命だった。 |
『銅の谷の女神番外編 聖洞騎士』 完