■セブンアイ
 
「代理人」


 トム・クルーズの「ザ・エージェント」が話題を呼ぶよりはるか昔のことである。
「知らないと思うんだけれど、保険会社や電気メーカーじゃないですよ。スポーツ選手のマネージメントを扱う代理店なんです」
「ああ、ゴルフのパーマーが創ったとか…」と、先輩記者から教えてもらった知識を受け売りをしたものの、名刺を受け取ったまま会話が途絶えたのが初対面だったと思う。今では、どんなアマチュア選手にもマネージメント会社が付いてスケジュールや肖像権を管理するし、代理人という言葉も職業も、十分認知されている。しかし、米国でスポーツをビジネスとする会社が、日本に支社を立ち上げようとした20年前、仕事ははかどらなかっただろう。彼は、そうした時代、世界のトップアスリートのマネージメントに関わり、日本でビッグイベントがある度に、未熟な私にインタビューのチャンスを与えてくれた。

 88年、ソウル五輪直後、長い爪で女性スポーツのイメージを変えた、世界記録保持者、フローレンス・グリフィス・ジョイナー(故人)とのインタビューは印象に残る。当時、ビジネスでも恐らく世界最高金額を稼ぎ出した彼女が、ふいに引退をほのめかす発言をした。同席した彼は慌てず逆に「じっくり聞いて」と、心境を吐露する彼女を止めなかった。
「アスリートは孤独だから、話をする時くらい、プレッシャーを負わしたくないから」
 そういう主義だった。

 その後、同業他社に移籍したが、時々電話を掛け合っては、近況報告をした。今春、病院に呼ばれ、難しい病気であること、読んで欲しい本があることを告げられた。女子マラソンの世界記録保持者、ポーラ・ラドクリフ(英国)の自伝である。
「この本はあなたに読んで形にしてもらいたと思ってね。忙しいと思うから、気長に」
 3日、アテネ金メダリストの野口みずきが札幌ハーフに出場した日、訃報が届いた。借りた原本には、ラドクリフが彼へのメッセージをサインしていた。
「早く元気になってね! 心を込めて」

 彼女もきっと悲しんでいるだろう。偶然にも、女子陸上の最短距離と最長距離の、前人未到の世界記録を樹立した女性アスリートが信頼していたのは、52歳で亡くなった日本人の男性だった。これからは、日程や、肖像権やら放映権の心配をせず、スポーツを心から楽しんで観戦するのだろうか。

(東京中日スポーツ・2005.7.8より再録)

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