■セブンアイ
 
「山口衛里」


 スイートピーやチューリップの花束を抱いて、私は北風の舞う岡山の街を、会見場に向かって歩いていた。女子マラソンシドニー五輪7位、99年11月の東京国際では2時間22分12秒と、「女子だけの折り返しコース」では世界最高とされる記録で優勝した山口衛里(32歳、天満屋)が7日、競技を引退し、陸上部アドバイザーとなり、岡山県立短大に通うと明らかにした。会見で思い出のレースを聞かれ、「これが最後」と挑んだ東京だった、と、一度だけ目を赤くしたが、涙はなかった。引退は「ゴール」ではなく、胸躍る「スタート」だったからだろう。

 シドニー五輪後、内転筋、恥骨炎、坐骨神経痛、最後はでん部の筋肉が炎症から癒着を起して神経を圧迫、脚をつくことさえできなくなって緊急手術をした。

「自分は不死身だと思っていたんです。だから知識が必要ありませんでした。これでは後輩にいい助言はできないと思うんです」

 そう決意し、一般と同じ受験をした山口は、アテネ五輪からの出題にヤマをはり、見事的中。水泳女子八百メートルで金メダルを獲得した柴田亜衣(鹿屋体育大)の「慌てず、騒がず、諦めず」といった報道から問題が出たという。まさか五輪選手が五輪選手について答えているとは出題者、試験管も思わなかっただろうが。シドニー5キロ地点の給水で転倒した経験から、自分は大舞台に精神的な弱さから力が出せなかった、今後は心技体の関係、ベストな調整にどんなトレーニングが必要か学びたい、と書いた。

 サクラサク。

「合格はよかったけれど、正解ではない」、と私は控え目な彼女に反論した。転倒した際、腕時計を壊し、それを「覚悟するため」わざわざ外して沿道の友人に託し、山口は25キロをたった独りで、しかも35キロからは出場者中もっともいい記録で戻ってきた。慌てず、騒がず、諦めず、2時間半もの時間を、五輪を、走り抜いたからではないか。

 99年東京で競技場から独走した姿、シドニーで孤独に耐えた姿。山口が教えてくれたのは、記録だけではなかった。「独り」にあえて挑む女性の、精神力である。

「大学を出るころ、もう一度、マラソンを走ってみたいんです。記録のためではなくて」

 私たちは、これまで何度も別れた岡山駅の改札口で、抱き合った。ホームへ続く階段下で振り返ると、彼女はまだ手を振っていた。輝くような笑顔で。ジャンプして。

(東京中日スポーツ・2005.3.11より再録)

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