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「ドレクスラー」


 大好きな女性アスリートが、セレモニーを終えた通路で抱えきれないほどの花を胸に、笑顔で泣いている。今年40歳になる女子陸上のスーパースター、走り幅跳びでバルセロナ、シドニーで金メダルを獲得したハイケ・ドレクスラー(ドイツ)らが、この日、スーパー陸上史上最高となる4万9810人のファンを集めた横浜国際競技場で現役生活に別れを告げた。

「いつかは終わる日が来ると覚悟し、準備をしていたのに、本当に最後の日が来ると、こんなにも寂しいなんて」
 話しかけると、ドレクスラーは笑って涙をぬぐった。

 19歳で世界チャンピオンになり、その美貌と光学技師という知性で世界中から愛された女性である。1989年、ベルリンの壁崩壊後は薬物疑惑や裁判、スパイ疑惑、一男をもうけた夫との離婚、未婚の母としての生活、そして2度の手術、国家と時代と怪我に翻弄されながら、しかし、幅跳びの力強さ同様、一度も競技を諦めなかった。

「仕事を終え、息子を高跳びのマットに寝かせてナイター練習をしたこともあった。たくさんの記録やメダルに恵まれたけれど、私はとにかく負けなかった、と今、誇れるわ」
 息子さんは15歳になり、サッカーのドイツW杯に出ると張り切っている、とバッグから写真を出してくれた。

 ドレクスラー、93年世界陸上でルイスを破って金メダルを獲得した男子二百メートルのフレデリクス(37歳、ナミビア)、2001年世界陸上金の女子走り高跳びババコワ(37歳、ウクライナ)と、この夜、引退セレモニーを行った3人に共通しているのは、35歳をこえてもなおトップアスリートであり続けたこと、そして競技と同時に国家の、時代の混乱とも常に戦い続けたことだろう。

 ババコワはソ連崩壊後、シューズの調達にも苦心し、フレデリクスは賞金など資材を投じて貧しい母国に施設と基金を寄付し続けてきた。彼らが世界中のスポーツファンに愛され尊敬されたのは、メダルや記録のためだけではなく、「不屈の魂」という特別な才能と、気高い精神をいつでも見せてくれたからだ。本当に寂しい。

「彼なら世界中を魅了する真の競技者になるでしょう。この金メダルに立ち会えた日に競技を終えるなんて、私は幸せに思う」
 輝く笑顔の「彼」、不屈へと踏み出した、室伏広治(ミズノ)を見つめながら。

(東京中日スポーツ・2004.9.24より再録)

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