■セブンアイ
 
「暑くても……」


 ご老人が道端にしゃがんでいたので、熱中症が心配になり、声をかけた。
「朝の日課の散歩を、と思ったんだが、歩くだけで息が上がっちゃってね。言いたかないけどこの暑さ、歳かねえ?」
 幾つでも言いますよ、と笑いながら手を引いてコンビニに入り、ご老人、エアコンと水で落ち着きを取り戻したようだった。しかし、真っ赤な顔をした老人に「歩くだけで息が上がる」と言われ、五輪史上最悪と言われる酷暑のなかで、この東京より高湿で行われるであろう、アテネ五輪マラソンを改めて思うこととなった。2週間前、40度を超えているはずのそこではなぜか、誰ひとり、暑いと口にしなかったのである。

 2週間前、アテネで、土佐礼子(三井住友海上)、野口みずき(グローバリー)、坂本直子(天満屋)の3人が時間差で最後の試走を行い、現地で取材をした。誰も「暑い」と言わなかったことは、コースへのどんな適切な感想よりも胸にしみる。湿度が違う、風がある、といってもやはり40度。走らないのにどれほど水を飲んだかわからない。スタート時刻の6時になっても気温は35度である。

「私にとって最高の舞台を走るのですから、暑いなんてどうでもよく思えます。そんなことを口にしたらもったいないです」

 野口はそう言っていた。今はスイスの山並みを吹き抜ける強風に向かって走っているだろ。
 昨年のパリ世界陸上前の合宿では、この強風に「こんな風では走れない」と不満を言った。パリで銀メダルを獲得したが、条件に不満など言う姿勢ゆえ、金メダルに届かなかったのだと、のちに話してくれた。

  土佐は、さらなる暑さがやってくるように、と試走しながら神様に祈ったという。
「暑くなれ、暑くなれ。そうしたら私にチャンスがまわってくる、粘れるから」と。

 23歳、最年少の坂本はこう言った。
「どんな天気でも、それも五輪と思えば楽しいです。暑さなんて気にならない」

 空港で別れたとき、坂本には「スタートで笑顔で手を振りますから、振り返してくださいね」と言われた。立っていてもめまいがしそうな暑さにも、代表として笑顔で、平然と、毅然と、覚悟や意気込みを持ってメダルに挑もうとする彼女たちを思い、せめて22日だけは、と口癖の「暑い」をやめた。8月22日、期待の女子マラソンスタートまでちょうど1か月の、あまりにささやかな願かけである。

(東京中日スポーツ・2004.7.23より再録)

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