■セブンアイ
 
「聖火」


 連日世界中でつながれていく聖火リレーをテレビで見ながら、マリア・ホロスは今どうしているのだとう、と、ふと考えた。108年ぶりに近代五輪が発祥の地で行われる記念行事として、聖火リレーは史上初めて五大陸をまわる歴史的なイベントとなり、8月13日、アテネに戻る。あの火を生んだ女性こそ、70歳を迎えるホロス女史である。

 昨年12月、私はアテネ五輪の前もの取材に現地に飛んだ。ほとんどの競技場がまだない、クリスマス休暇で関係者もいない、アポもないしコネもない、悲惨な取材だった。しかし、敬意を払って古代五輪の発祥地へ行こうと、アテネから片道400キロドライブでオリンピアに到着したとき、不思議なことが目の前で起こった。

 抜けるような青空の下、重厚な石のアーチをくぐると、そこには1周192メートルのトラック、石灰で作られたスタートラインがある。紀元前776年、古代五輪が始まったこの競技場は現在、世界遺産でもあり、アテネ五輪では砲丸投げが行われることになっている。
 優秀な通訳兼ガイド、ドライバーの3人で「いっそ、遺跡でやれば完成してるのに」と力ない冗談を言いながら遺跡の芝に座ると、小柄だが威厳のあるホロス女史と、彼女に率いられた若い女性20人ほどが遺跡に入ってくる。女性たちは遺跡の陰で、演出家として世界第一人者の女史の厳しい振り付け指導のもと、劇的な躍りを始めたのである。聖火を生む「採火式」のリハーサルである。
 世界中のトップシークレットのリハーサルをなぜ、誰一人いない2800年前の遺跡で、日本から来た記者が目撃しているのか、ありえない偶然だった。そして静寂さ、厳粛さと、何よりも感動的な式典を見て、女史に握手を求めた。観光客の雑談のふりをしながら。

「今回の聖火は、じつは長い五輪の歴史でさらに新たな歴史を刻むの。私たちのこの芝の舞台から、世界中が火でつながるとしたら、こんな喜びがあるかしら? これが生涯最高の舞台になるわ」

 今年3月、採火は20人の「みこ」によって行われ、ホロス女史が歴史と独自の解釈で書いた古代劇と音楽から生まれた火は今、世界をめぐっている。

「今日のことは内緒よ、お願いね」
 抱き合って別れた際の、彼女のチャーミングなウインクを思い出す。アテネで再会したら、本当は記者だったと謝ろうと思っている。

(東京中日スポーツ・2004.6.18より再録)

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