■セブンアイ
 
「稲本の負傷」


 サッカー尾イングランド戦(1日、シティ・オブ・マンチェスター・スタジアム)終了後の取材エリアで、日本代表は彼らが見せた90分とまったく同じに、落ち着いた口調で試合を振り返っていた。突然、彼らの声が聞き取れなくなる。ベッカムが真横に立ったからだ。

「サインもらって来てえ!」
「生写真撮れるでしょう、お願い」
 友人たちから殺到した無理難題を思うと、彼女たちに、ベッカムの声がカン高くて取材に支障が、とか、ルイ・ヴィトンのポーチを小脇に抱え、特大のダイヤのピアスをしてミックスゾーンに出てくるなんておかしいよ、などと言おうものなら怒られるだろう。

 イングランドとの親善試合は、9年前、日本代表が始めて聖地・ウエンブリーで試合をした当時とはすべてが変わっていた。日本代表の9年間の変化を劇的に表すのが、体力的にも厳しいプレミアリーグで3年間プレーを続けてきた稲本潤一(フルハム)の存在である。
 2日朝、出発前のあわただしい時間に携帯が鳴る。9年前の親善試合以来親しくしている、大ベテランのサッカー評論家からだ。ベッカムも彼を信頼していると聞いたことがある。

「イナモトの足はどうなんだろう。私も、いつも笑顔で楽しそうにプレーする彼が好きなんだ。お見舞いを伝えてほしい」
 彼は、稲本の負傷をひどく心配し、あの試合ですばらしい闘志をイングランド相手に見せた選手として、また彼に代表される日本代表の試合ぶりについてコラムを書きたいのだという。ひ骨骨折で全治3か月と知らせると、電話の向こうで深いため息が聞こえた。

 2年前の夏、稲本のロンドンの自宅で取材をさせてもらったことがある。自炊するキッチンにはコシヒカリの袋と炊飯器が並び、食堂には体重計が、リビングには「ハリー・ポッター」の原書が置いてあり、「すごいね」と言うと「ちょっとずつ読んでいるんです」と照れくさそうに笑っていた。
 W杯で「俺って旬?」と茶目っ気たっぷりのジョークとその愛嬌で、日本中ノンファンをひきつけた若きMFの重傷は、2か国のサッカー界に悲しみの共有という、9年前には考えられなかった感情をもたらすことになった。

「ベッカムも同じリーグで戦ったことのある稲本のことを心配していると思う。あとで伝えておくよ」
 友人にはこの話を伝えようと思う。サインより、生写真より、はるかに価値があるのだから、と説得して。

(東京中日スポーツ・2004.6.4より再録)

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