■セブンアイ
 
「記念碑」


 サッカー日本代表のチェコ戦でプラハに滞在中、ジョギングをしていると、八重桜2本が飢えられた庭園を持つ邸宅を通り、そこの老婦人と話をした。彼女は絵を描いており、四季を描きたくて日本を訪ねたことがあった、という話を先週のコラムに書いた。
 すぐに質問攻めにするのが悪い癖なので黙って聞いていたが、チェコのなかでも地位があり、セイジや時代の狭間を生き抜いてきた女性なのだと思う。しかし不思議な出会いの続きは、まだちょっとだけ続いている。

 短い時間だが世間話をしていると、「オルシャンの国立墓地には行きましたか。ぜひとも行くべきだわ、日本の女性ならば」と言われた。なぜわたしが国立墓地にお参りに行かねば? ときょとんとしていると、「ミズ・キヌエ・ヒトミは知っているでしょう」と聞かれ思い出した。そう、プラハには人見絹枝さんの死を悼んだ記念碑があるのだ。その地にいながら思い出さなかったことは、この職業に就いた者として落第である。

 1928年、アムステルダム五輪に日本初の女子選手として出場、800メートルで銀メダルを獲得。その2年後、プラハでの「第3回女子五輪」に出場しようにも費用はなく、彼女は当時全国を駆け回って、「十銭募金」を行い、仲間の女子選手をも連れて行った。講演や挨拶まわり、練習と休む間がなく、プラハの翌年、肺結核で、24歳で亡くなった。

 しかしプラハでの女子五輪で個人総合2位に入る活躍と、彼女の人柄への記憶は特別なもので、チェコの人々は国立墓地内に慰霊碑を建てて日本の女性を讃えている。派遣費用を捻出した自立した精神、高い競技力、温かさ、人見さんが日本女子アスリートの象徴であることは、日本女子選手の誇りである。

 結局、墓地には行けなかったが、プラハから別の取材で今度はアムステルダムに行ったのだから、アテネ五輪を前にした、つくづく不思議な旅だったのだ、と今噛みしめている。
 アテネ五輪女子派遣は、現時点でも男子の70数人を倍近く上回る約150人という。すでにメダルは前回のシドニーで女子13個と男子5個を上回っており、これで量も質も女子が上位になる。たったひとりで五輪に参加した人見さんは何と言うだろう。驚くだろうか、笑っているだろうか。
 プラハの記念碑にはこう刻まれている。
「愛の心を持って世界を輝かせた女性に、感謝の念を捧ぐ」

(東京中日スポーツ・2004.5.7より再録)

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