■セブンアイ
 
「プラハの八重桜」


 ああ、私の黄金週間は、旅行は、どこへ消えたのだろう。GWに入る直前、ここプラハでのサッカー日本代表のチェコ戦を取材に日本を発ち、この後も欧州での取材が続く。帰国する頃には黄金週間は完璧に終わっている。
 ああと嘆きながら、坂道の勾配は箱根駅伝並みだと途中で気がついたが、春霞に揺れるプラハの街を見渡せる小高い丘まで、チューリップ、水仙やヒヤシンスがあふれる道をあてもなくトロトロと走って行くのはそう苦しくない。道はやがて豪邸の並ぶ住宅街へと変わり、花の配置も種類も素晴らしい庭を見つけて立ち止まった。朝から老婦人が、花壇の手入れをしている。

「グッドモーニング」と挨拶をすると、ふくよかな女性が立ち上がって、抜いていた雑草を袋に捨てながら優しく笑った。
「あなたは選手なのかしら?」
 とんでもない、と大きく手を振って「日本から来ました。観光客です」と返す。こんな場所を朝っぱらから走るのはかなり怪しい観光客ではあるが。女性は驚いた顔で「どうぞ入って庭を見てください」と言ってくれた。チューリップは6色もあり、庭には小さいが八重桜が「2本」あることに気がついた。女性は奥からコップに入れたアイスティーと小さなスケッチブックを運んで来た。

「あなたが日本から来たと聞いて驚いたのは、実は私も日本に行ったことがあるからなの。昔は絵を描いていてね……」
 街路樹に桜もある。女性は日本の四季、とりわけ春の桜を描きたいと願っていたが、その前に帰国をしなくてはならなくなった、だからこちらで2本の八重桜を庭に植えたのよ、もうこんなに大きくなってしまった、と言った。スケッチブックの絵の場所はわからなかったが、なぜか、彼女一人ではなかったのではないか、そう思った。
 私は北海道という北の地でも桜が咲いたと思う、また来てくださいと言ったが、玄関に立てかけた杖を見て、彼女は静かに笑った。
 ほんの20分程なのに、不思議な時間だった。お礼を言い、彼女は私の手を強く握ってお別れをした。2本の桜の意味は聞かずに。

 今度は坂道を駆け下りながら、私は何を嘆いていたのだろうと思った。見知らぬ街で、2度来ない街で、ガイドブックも知り合いもいない街で、こんな豊かな「旅」ができたというのに。

(東京中日スポーツ・2004.4.30より再録)

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