■セブンアイ
 
「諦めない強さ」


 忘れられないのは4年前の2000年3月、名古屋女子マラソンのパーティー会場で見た笑顔である。
 シドニー五輪代表権をかけた熾烈な選考レースは、故障や体調不良に苦しんでいた高橋尚子が2時間22分19秒の見事な記録で優勝を果たして最後の議席をもぎ取った。一方「彼女」は、この名古屋で実質上の初マラソンを走り、2時間24分36秒で高橋に続く2位と、もし優勝が高橋でなければ、もし五輪の年でなければ、スポーツ新聞の見出しを独り占めできるほどの成績をおさめていた。レースが終わり、選手が華やかな私服に着替えたホテルでの「さよならパーティー」で、土佐礼子(三井住友海上)は教えてくれた。

「ハーフを過ぎてしばらくしたら、ものすごいスピードで集団を抜け出して行くランナーがいて……。一瞬、男子がいるのかな、なんて思ったんです。高橋さんでした」

 ハーフを過ぎて一気に勝負に出た高橋にあっという間に置いて行かれたときの感想をそんなふうに表現し、屈託のない笑顔を見せた。新鮮だったのは、世界一強いとされる日本女子マラソン界に、いい意味で常に感じられる「野心」といったものがまったく感じられなかったことである。愛媛県出身、両親、姉2人と祖父、犬2匹と瀬戸内海をのんびり眺めて過ごしたランナーは、松山大学に入学しても無名で、それどころか、練習に来る高校生たちにさえ負け続けたという。負けることには慣れっこになったが、諦めたことはなかった。

 三井海上に入社してからも、練習でもいつもビリっけつだったが、高地練習など、より苦しい場所でのトレーニングを積むうちに、「諦めない」強さが少しずつ発揮されるようになる。マラソン練習の魅力を、土佐は「練習した分、返ってくること」と話していた。

 14日、世界的なレベルで競われた女子マラソンの選考が、名古屋女子をもって終了する。4年前、高橋に続いて2位でマラソンにデビューした土佐は、本来ならば有力候補だった。かかとを故障し出場も危ぶまれたが、スタートラインに立つ決断をした。出場はしない高橋の見えぬ背中を見つめて走る、本当に苦しいレースになるだろう。しかし土佐の、もちろんほかのランナーの見せるレースが楽しみである。

 松山大学で土佐が選んだ卒論はへミングウェイだった。彼女は好きな作品を『陽はまた昇る』だと言った。

(東京中日スポーツ・2004.3.12より再録)

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