■セブンアイ
 
「7年前の記憶」


 97年3月23日も、思えばあの日だけではなく、一年間がずっと苦しい戦いだった。
「97年の試合でも、ああ、最後はディフェンスのオムさん(小村徳男=現広島)が決勝点を取ったくらい苦しいんだ、と思っていたら、自分たちもそうだった」

 18日、ホームにオマーンを迎えたサッカー日本代表は、切れそうな糸に引っ掛かった幸運によって、勝ち点3の大魚を釣り上げた。PKを外した中村俊輔(レッジーナ)は試合後、7年前、やはり同じオマーンとアウェーでスタートした第一次予選を引き合いに出してしみじみとそう話した。中田英寿(ボローニャ)と楢崎正剛(名古屋)以外、経験者がいないチームは、選手も気が付かないうちに金縛りにあっていたようである。

 7年前、全ての試合に帯同した記者たちも試合後、どこか重い胃の当りを抑えて「久々にシビレたねえ」と、笑っていた。日本代表よりは多い、予選経験「記者」たちにもまた、18日は特別な日であった。ある記者は、ジョホールバルでイランを下して初のW杯出場を決めた日と同じスーツを着た。幸い、まだサイズは変わってなかったんです、と笑いながら。試合前、神田明神に参拝し、勝ち守りをもらった記者もいる。「最後は情けなくてもお守りに頼りました。勝率ここまで10割です」と、試合後、スーツの胸のポケットからお守りを出してくれた。異動で、この日が最後の代表戦となった記者は、出掛けに、最後の挨拶をするにはスーツだろう、と一瞬思ったという。しかし、「あえて普段着で」と、ジャケットだけを手にして競技場にやって来た。無理やり聞きだしたが、皆、内緒の縁起かつぎである。

 7年前、私は選手に教えられたと思っている。ひとつは、楽な試合は1試合もないこと。もうひとつは、誰もが「もう終わった」と見切った崖っぷちを彼らが戦い抜いたこと。まして、2年にまたがる予選の初戦、しかもたった45分で彼らにブーイングを浴びせるのは、気が早過ぎる。

「マスコミやサポーターにとっては、W杯3敗が全てでしょう。でも俺は、オマーンからスタートし、苦しみながらフランスへ行った予選からの、1分1秒を絶対に忘れない」
 名波 浩(磐田)がのちに言ったコメントを思い出し、私は7年前に使ったペンをバッグにしまい、スタンドから駆け下りた。

(東京中日スポーツ・2004.2.20より再録)

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