■セブンアイ
 
「粉と卵」


 昔、「粉と卵」か、それとも逆だったか、そういう名のお菓子屋があり、味はもちろん、まさに期待が「膨らむ」ネーミングが気に入っていた。店の前を通ると、焼きあがったスポンジケーキの匂いがぷーんと立ち込め、思わず店に吸い込まれたものである。
 ところが、サッカーの取材現場では、ポルトガル語の「粉(ファリーニャ)と卵(オーヴォ)」は危険な匂いが立ち込めている。

 5日、日本代表の練習が終わると、帽子にジャンパーのフードをかぶり、さらにその上にタオルをかぶる不審者がクラブハウスから飛び出してきた。満月の明かりだけでは誰だかわからなかったが、代表のテクニカルアドバイザーでジーコの実兄、エドゥーである。この日が、57歳の誕生日。ブラジル流のお祝いでは、誕生日ケーキを作るという意味で、頭の上でまず卵を割って、その上から粉をかける。儀式に特に名前はないが、ブラジルのサッカー選手たちが日本の選手にやるようになって、今では誕生日、というと、選手は喜ぶどころか、朝からいつ飛んでくるかもしれない卵を警戒して周囲を常に見渡し、鋭い目つきで一日中過ごす。
 エドゥーは声をひそめて、笑った。
「誰も僕だってわからなかっただろう? 何しろ一番危ない人物から逃げ切らないとね」

 やんちゃな弟の「奇襲攻撃」を恐れて、真面目な顔で逃げ惑う兄の姿にはリアリティがあって、吹き出してしまった。サッカーにおいては監督がもっとも信頼を置く戦術眼と分析力を持つ兄だが、まずコメントをしない。親しみがないのではなくて、弟より前には絶対に出ない、と聞いたことがある。
 子どもの頃は、末っ子だからと皆で甘やかし、ジーコをひ弱に男にしないように、と、ストリートサッカーで特訓をした。そのうちに、自分よりも、ほかの年長者の誰よりも弟の素質がずば抜けていること、特別なオーラを持っていることに気が付いた。
「ある時から私は彼と張り合うことは止め、彼にいいプレーをさせることばかり考えていた。今では、彼が率いる代表を支えることのみ考える。弟は太陽で私が月だ」

 監督としての弟を採点してもらうと、10点満点で5.5点と辛口だったが、「本当の難問はこれからだから」という。
 ホテルに戻ったエドゥーは、本物のケーキで選手に祝福され、ジーコが手の平に何も隠していないことをちゃんと確認してから、抱き合ったそうだ。

(東京中日スポーツ・2004.2.6より再録)

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